水源連:Japan River Keeper Alliance

水源開発問題全国連絡会は、ダム建設などと闘う全国の仲間たちのネットワークです

ホーム > ニュース > 報道川辺川ダムの情報 > 復活・川辺川ダム/下 大規模流水型、前例なく 環境への影響、払拭されず /中 五木村「対立の歴史再び」

ニュース

復活・川辺川ダム/下 大規模流水型、前例なく 環境への影響、払拭されず /中 五木村「対立の歴史再び」

2020年11月28日
カテゴリー:

毎日新聞東京夕刊の連載記事「復活・川辺川ダム」の(中)と(下)を掲載します。(中)の記事は(下)の記事の下にあります。

(下)では既設の流水型ダムで最大の益田川ダムの問題を取り上げています。

益田川ダムについて次の問題が書かれています。

「流水型は魚類の移動を妨げないとされる。ただ、島根県が06年度、益田川ダムの上下流でアユが川の藻類を食べた跡の数を調べたところ、下流側より上流側が少なかった。県は「(ダムの)水路部が(遡上(そじょう)の)阻害要因の一つと考えられる」としている。」

「また、ダムの下流域では、毎日新聞の取材に「ダムができてから下流に一定以上の水が流れなくなり、川に土砂がたまりやすくなった」と証言する住民もいた。」

益田川ダムができてから、まだ15年しかたっておらず、これから種々の問題が出てくることが予想されます。、

そして、益田川ダムは総貯水容量675万㎥です。一方、川辺川ダムの元の計画は総貯水容量13300万㎥、洪水調節容量8400万㎥、堆砂容量2700万㎥でしたから、治水目的だけでつくるとすれば、8400万㎥+2700万㎥=11100万㎥の容量になります。

流水型ダムとして川辺川ダムをつくるとすれば、川辺川ダムは益田川ダムの16.4倍(11100万㎥÷675万㎥)という、けた違いに大きい流水型ダムとなりますので、どのようなことになるのか、予想が付きません。

  

復活・川辺川ダム/下 大規模流水型、前例なく 環境への影響、払拭されず

(毎日新聞東京夕刊2020年11月28日) https://mainichi.jp/articles/20201128/dde/041/040/023000c

(写真)流水型の益田川ダムの「貯水池」。平常時は水がたまっておらず、整備されたグラウンドゴルフ場は地元の人らでにぎわう。斜面や橋の橋脚に満水時の水位が青色で表示されている=島根県益田市で2020年11月9日午後2時33分、平川昌範撮影

11月初旬、島根県益田市にある益田川支流の河畔は、グラウンドゴルフを楽しむ人たちでにぎわっていた。この場所は、約1キロ下流の益田川本流にダム本体がある「益田川ダム」の貯水池(ダム湖)の底に当たる。木々で色づく山へと続く対岸の斜面や、川に架かる橋の橋脚に「満水位」と書かれた青色の印が見えた。ただし、流水型で建設された同ダムが満水になったのは2005年の試験時だけ。翌年のダム完成後、グラウンドゴルフ場が水につかったことは一度もない。

普段はダム本体底部の水路を通って川の水がそのまま流れ、大雨時だけ水路からあふれた水が自然にたまる治水専用の流水型ダムは、常時水をためる貯水型ダムに比べ環境への影響が小さいとされる。川辺川でのダム建設を容認した熊本県の蒲島郁夫知事が国に要請したのも流水型だ。反対運動の末に、豪雨被害を受けて流水型ダムで決着した経緯も益田川ダムと重なる。

県営の益田川ダムは1972年7月に発生した豪雨をきっかけに計画された。地元の美都町(みとちょう)(現益田市)で反対運動が起きたが、83年に益田川の氾濫などで県内の死者・行方不明者が107人に上る甚大な豪雨被害に再び見舞われたことで風向きが変わった。後に美都町長を務めた寺戸和憲さん(72)は「畳に挟まれた遺体も見つけた。反対ばかり言うわけにはいかんと思うようになった」と振り返る。

住民らは89年にダム建設の補償交渉で合意した。20戸以上が移転を強いられたが、河畔にはグラウンドゴルフ場のほか、サッカー場や屋根付きスポーツ施設も整備された。一帯に植えられた桜並木には毎年大勢の花見客が訪れ、近年は市街地からの移住者もいる。寺戸さんは「流水型だからこそ、安全と地域のにぎわいにつながった」と考えている。

農林水産省によると、流水型ダムは50年代ごろに農地防災ダムとして各地で造られたが、あくまでも農地を守るためのごく小規模なもので、下流域の被害軽減を目的とした国土交通省所管の流水型ダムは益田川ダムが最初のケースだ。その後、最上小国川ダム(山形県最上町)▽浅川ダム(長野市)▽辰巳ダム(金沢市)▽西之谷ダム(鹿児島市)――の4ダムが完成し、現在も熊本県南阿蘇村の立野ダムなど複数のダムが建設中だ。

これら先行する流水型ダムは川辺川に建設されるダムのモデルケースになるのか。益田川ダムを視察したことのある球磨川流域のある首長は「規模が違いすぎて参考にならなかった」と語る。完成済みの5ダムのうち、最大の益田川ダムでも本体の高さ48メートル、総貯水量675万トン。一方、貯水型の現行の川辺川ダム計画は本体の高さが107・5メートル、利水分を除いた洪水調節用の貯水量は8400万トン。発電や農業用水などに使われる利水用の水をためる必要がない流水型になれば、本体の高さをもう少し低く抑えられる可能性があるとはいえ、けた違いだ。

環境への影響の懸念も払拭(ふっしょく)されていない。流水型は魚類の移動を妨げないとされる。ただ、島根県が06年度、益田川ダムの上下流でアユが川の藻類を食べた跡の数を調べたところ、下流側より上流側が少なかった。県は「(ダムの)水路部が(遡上(そじょう)の)阻害要因の一つと考えられる」としている。また、ダムの下流域では、毎日新聞の取材に「ダムができてから下流に一定以上の水が流れなくなり、川に土砂がたまりやすくなった」と証言する住民もいた。

蒲島知事が08年に川辺川ダム計画を「白紙撤回」する直前、国交省は流水型での建設を提案していたが、知事は「環境への影響や技術的な課題について詳細な説明がない」と受け入れなかった。その状況がこの12年で大きく変わったわけではない。水没予定地の五木村の前村長で川辺川ダム問題に長年関わってきた和田拓也さん(73)は「あまりにも不確定要素が多すぎる」と懸念する。(この連載は平川昌範、城島勇人、吉川雄策が担当しました)

 

 復活・川辺川ダム/中 五木村「対立の歴史再び」 水没予定地、整備計画も不透明に

(毎日新聞東京夕刊2020年11月27日) https://mainichi.jp/articles/20201127/dde/041/040/028000c

(写真)川辺川ダムの建設計画に伴って高台に移転した住宅地(右)。流水型ダムでも左奥から流れる川辺川周辺は水没する可能性がある=熊本県五木村で2020年11月17日、本社ヘリから津村豊和撮影

「今回の決断に際し、私は川辺川ダム問題に長年翻弄(ほんろう)され続けてきた五木村の皆様のことが頭から離れなかった」。熊本県の蒲島郁夫知事が川辺川でのダム建設を容認すると表明した19日、同県五木村の木下丈二村長は出張先の東京にいた。永田町近くの都道府県会館の一室でインターネット中継を見ながら、木下村長は、知事がダムで水没する五木村に言及するのを複雑な思いで聞いていた。

「正直言うと12年前の方がショックが大きかった。今回は元に戻ったという感じだ。でも住民からすれば、なぜ今さらという思いは当然あるやろうね」。2008年に蒲島知事が川辺川ダムの「白紙撤回」を表明したことを受け、旧民主党政権がダム中止を決めた09年当時、副村長を務めていた木下村長は言う。

1966年に五木村の中心部が水没するダム計画が発表されると、村では激しい反対運動が起きた。85~07年の村長で、現在は村議の西村久徳さん(84)は、ダム計画が村の人間関係を壊す姿を見てきた。賛成派と反対派に分かれ、仲良かった住民が「あいつの家族の結婚式には行かない」といがみあい、口を利かなくなった。それぞれが「俺たちの言う通りにやれば村は再生する」と主張し、村はバラバラになった。

国が補償条件を示すようになると、心が揺れる村民も増えた。「あの人はもう受け入れたらしい」などのうわさが飛び交った。「裏切り者」と後ろ指をさされるのを恐れ、夜逃げ同然で村を離れる人たちもいた。「村長として、本当につらかった」。西村さんは96年、村長としてダム本体工事に同意する。その後、村は山村復興を意味する造語の「ルネッサンソン計画」と称し、ダム湖ができるのを前提にした観光振興などの村づくりを構想した。

ところが、知事による白紙撤回で構想は振り出しに戻った。水没も免れたが、既に予定地の住民はほぼ全員が移転を終えていた。村内の高台に整備された新しい住宅地だけでなく、村外に引っ越した住民も多く、ダム計画が明らかになる66年の前年に5000人近かった人口は、知事が白紙撤回を表明した08年には3分の1以下の約1400人にまで減っていた。

「ダムを造らないなら残りたかった」。村で民宿と食堂を営む田中加代子さん(60)は小中学校時代の同級生からそんな恨み節を何度となく聞いた。ダム計画が持ち上がったのは田中さんが小学生になる少し前。同級生約50人のうち約30人が「よそに行くけん」と村を去った。「残っていれば村の担い手になっていただろう」と思うが、いまも村に残る同級生は自身を含め7人しかいない。そして、今回のダム容認表明。田中さんは「再び対立が生まれ、村はまた混乱する」と心配する。

県はダム計画を白紙撤回した後、「五木村が国や県の政策に翻弄された」として、独自に村への財政措置を始めた。09年以降、総額10億円の基金を設け、11年にも50億円の追加支援を決定。本来は国の予算が充てられる国道整備などハード事業にも使われた。村は水没予定だった川沿いの土地を国から借り、運動公園や宿泊施設などを整備。08年に約13万人だった観光客が19年には約17万人に増えるなど、「日本一の清流」を生かした新たな村づくりが軌道に乗り始めたところだった。

しかし、12年の時を経て再びダムができることになり、水没予定地の活用をはじめとした村の将来像はまたも不透明になった。蒲島知事は20日、白紙撤回した貯水型ダムではなく、大雨時だけ水がたまる流水型ダムでの建設を国に要請した。実現すれば普段は水没しないが、大雨の時は水につかるため、せっかく整備した宿泊施設の移転などは免れない。一方で、かつて描いたような、ダム湖を生かした観光も不可能だ。

知事は23日、五木村を訪問し、木下村長に基金を10億円積み増す方針を伝えた。だがこの間、人口はさらに減り10月末現在で1034人になった。分断の歴史の中で衰退した地域の再生は容易ではない。木下村長は言う。「現状に合わせて新しい絵を描くしかない」

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

↑ このページの先頭へ戻る