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報道

ユズで築く「黄金の村」「細川内ダム」の計画地(中止)

2015年1月3日
カテゴリー:
2000年に中止が決まった徳島県の直轄ダム「細川内ダム」の計画地「旧木頭村」についての記事を掲載します。

ユズで築く「黄金の村」

(読売新聞 2015年01月03日)http://www.yomiuri.co.jp/osaka/feature/CO012651/20150103-OYTAT50000.html
(写真)東京でIT企業を経営する藤田さん。ふるさとを思わない日はない(東京・新宿と、ダム予定地だった旧木頭村の河原で)

再生の夢東京で描く

人口減と東京一極集中が進む。地方がかつてない苦境にあっても、明日への希望を胸に歩き続ける人がいる。ふるさとの衰退と向き合う四国を舞台に、再生へのヒントを探りたい 東京でIT企業を経営する藤田さん。
東京・新宿でIT企業「メディアドゥ」を経営する藤田恭嗣(やすし)(41)は、年の瀬を迎えても1日に10件以上の打ち合わせをこなし、100件を超えるメールに目を通す日々が続いた。
小説や漫画などをデータ化する電子書籍の流通大手として、東証マザーズ市場に名を連ねる。100人を超える社員を率い、今期は80億円の売上高を見込む。
そんな藤田が、故郷の徳島県旧木頭村(きとうそん)(現那賀(なか)町)で、特産の「木頭ゆず」をぽん酢やジャムなどに加工して販売する会社を作ったのは2年前のことだ。
藤田は毎年、新年を木頭の実家で迎える。元日の朝、いつものように東の空に向かって手を合わせた。「今年は若い社員を増やし、木頭を元気にする」と、志半ばで命を絶った父、堅太郎(けんたろう)に語りかけながら。
四国山地に抱かれた木頭村は、村を流れる那賀川の巨大ダム計画を巡り、約30年にわたり揺れた。国が治水と利水、発電を目的に進めた、総貯水量6000万トンの「細川内(ほそごうち)ダム」だ。
計画が表面化したのは、「列島改造」で日本中が沸き立った1970年代初頭。村の基幹産業が林業から建設業へと移行する中、恩恵に期待する声も上がったが、「水没で村が消えてしまう」などと反発は強かった。93年に新村長が当選すると、公約通りダム反対は村の基本方針になった。
しかし、国や県は推進の姿勢を変えなかった。村の国道には車がすれ違えないほど狭い区間があった。拡幅を求めても「どうせダムで水没する」と予算はつかなかった。
カネは国から県へ、県から村へと流れる。予算を差配する側の論理に簡単には逆らえない悲哀を、小さな村は背負わされた。
村職員でまじめな性格だった堅太郎は、「堅ちゃんがいれば話がまとまる」と言われるほど人望が厚かった。若手の頃から住民たちに熱く説いてきたのが、古くから自生するユズを生かした村の振興だった。
木頭の大きな寒暖差で育ったユズは驚くほど香り高く、全国の料理人らをうならせていた。集会を開いては「村中に実らせ、黄金色に輝く村にしたいんじゃ」と語り、栽培を勧めた。
だが、村はダム反対派と賛成派に割れた。「ダムに頼らない村づくり」を掲げる新村長のもと、助役になった堅太郎は、攻撃の矢面に立たされた。昼夜を問わず自宅に嫌がらせ電話が入った。心労を重ね、みそ汁しか喉を通らなくなった。それでも、村の将来をいつも案じ、妻の示子(ときこ)(76)にはことあるごとに「木頭をなんとかせな」と話した。
ダムを巡る村議会の攻防が熾烈(しれつ)を極めた96年。堅太郎は8月末、帰省した藤田を珍しく川釣りに誘い、その11日後、自ら命を絶った。61歳だった。走り書きされた遺書は「迷惑をかける」とわび、最後をこう結んでいた。
「恭嗣、がんばれ」
藤田は当時、名城大を卒業し、地元の名古屋で携帯電話の販売会社を作ったばかり。遺書の言葉、釣りの意味を考え続けた。
いつも通り口数少なく、苦しみを何も語らなかった父。あの絶景の清流が、ダム水没予定地だったと後に知った。「ふるさとの姿をしっかり見ておけ」。そんな遺言だったと思う。
木頭に帰ろうかと悩みもしたが、示子は「帰ってきても何もできないでしょ」と突き放した。息子を混乱の中に巻き込みたくなかったからだ。藤田は、「まず力をつけなさい」という教えだと受け止めた。
「木頭のために貢献したい」と、大都会を必死に歩いた。「故郷を捨てることは絶対にできない」との思いを、胸に抱き続けた。
国は2000年、細川内ダムの中止を決め、木頭は「巨大ダムを止めた村」として注目を集めたが、過疎の流れは止められなかった。1960年代に4000人を超えた人口は、今、1300人ほどに減った。
政府は「地方創生」策を矢継ぎ早に打ち出す。だが、藤田には信念がある。「ふるさとの再生は、国や県が主役なのではない。危機感とスピード感を持って自分たちで考え、自分たちで納得できる戦略を作っていくことが重要なのだ。時間はあまり残されていない」

将来、木頭で100人を雇用し、人口を500人増やす――その目標を絵空事だとは思っていない。ビジネスの最前線で戦ってきた経験と自信がある。会社の名前は「黄金の村」。父の夢とともに、藤田は歩き始 記事へめた。(敬称略)
 

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