大井川とリニア どうなる「水の恵み」、流域の歴史・歩み・思い
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リニア中央新幹線の南アルプストンネル工事に伴う大井川流量減少問題について、静岡新聞9月1日の記事を掲載します。
大井川は発電用水の大量取水で農家や漁協が長年悩まされ続けてきた川です。この記事はその過去の経過も振り返った力作です。
今から30年以上前のことですが、当時活動していた「河川・湖沼を守る全国会議」の一員として現地に行ったことがあります(嶋津)。
塩郷ダム(塩郷堰堤)の下流は河原砂漠になっていました。大井川は土砂の供給量が非常に大きい川で、中流部は砂礫の河川敷が大きく広がっていて、わずかな流量は砂礫の河床面より下を流れていました。
その後、地元住民らの「水返せ運動」により、1989年、一定量の水を戻すことを中部電力に認めさせました。それから30年経ち、水利権の更新時期になり、国と中電の協議が行われています。
大井川とリニア どうなる「水の恵み」、流域の歴史・歩み・思い
(静岡新聞2019/9/1 11:30)https://www.at-s.com/news/article/topics/shizuoka/674793.html
(写真)大井川最上流部に位置する田代ダム(手前)。数キロ先にリニアのトンネルが計画されている=8月中旬、静岡市葵区(静岡新聞社ヘリ「ジェリコ1号」から)
(地図)大井川流域 主なダム、用水
大井川の水は守れるのか―。JR東海が建設するリニア中央新幹線の南アルプストンネル工事で、トンネル内に湧き出る水の扱いを巡って同社と静岡県の対立が続いている。県の求めに応じ湧水全量を大井川に戻すとした同社だったが、ここに来てトンネルを掘り進む一定期間、全量は戻せないと表明。流域住民に困惑が広がった。流域は昔から水不足に苦しみ、国策として進められた水力発電所の開発にも翻弄(ほんろう)されてきた。その歴史を振り返り「水の恵み」について考えた。
■生活、産業にフル活用 少量減でも募る懸念
8月25日、静岡新聞社ヘリ「ジェリコ1号」で大井川を上流から下流へとたどった。見えてきたのは、限られた水を生活や産業にフル活用する流域の営みだ。全長168キロの大井川は本県最北端の間ノ岳(3190メートル)を起点とする。トンネルはその10キロほど下流で源流部の地下を貫通する。手つかずの自然が残る山肌を流れる何本もの青白い沢筋。上空から見ても水量は豊かで、多様な生態系を支えている様子がうかがえる。
全国有数の急流河川は高低差を利用した「水力発電に最適」(電力関係者)で、明治時代から開発が進んだ。トンネル計画区間のすぐ下流にある田代ダムは1928年に運転が始まった、大井川に現存する最も古いダムだ。たまった水の一部は発電用に導水路を通じて富士川に流れ出る。
さらに南下すると畑薙第一、第二、井川ダムが見えてきた。昭和30年代に完成し、電力を供給して戦後の高度経済成長を支えた。ただ、堆積する土砂が増え、渇水時に水量を調整するダムの能力低下が懸念される。井川ダムより下流は発電の効率化で導水管により水を送るため、河原を流れる水の量が少なくなる。流域のダム14カ所と水力発電所20カ所は、経済成長へと突っ走った「国策」の歴史を象徴している。
ヘリは下流域に到達した。左岸は水がしみ込みやすい「ザル田」と呼ばれる土壌の地域。牧之原台地が広がる右岸は水不足に悩まされ続け、江戸時代などに造られたため池が400カ所以上もある。発電に使われた水は中部電力川口発電所(島田市)の取水口を起点に志太榛原や小笠地域の家庭、田畑、工場で再び利用される。
(写真)河原で砂利の堆積状況など大井川の変化を説明する「大井川を再生する会」のメンバー=8月上旬、川根本町
(写真)日本道路公団が茶園への引水のため設けたポンプ施設。実際に茶園に水を届けることなく老朽化した=8月下旬、掛川市倉真
別の日、掛川市のトマト農家笠原弘孝さん(46)を取材した。大井川の流量減少問題について聞くと「水が数日間供給されないだけでトマトは駄目になる。水源の水が減るのは大きな不安だ」と語った。用水は工業にも活用され、スズキ相良工場(牧之原市)をはじめ、自動車部品や化学製品などの工場に安価な水を届ける。東遠工業用水道企業団の大石良治事務局長は「大井川のおかげで水源の乏しい地域に企業を誘致できるようになった。恵みの水だ」と強調した。
■渇水頻発 節水が長期化 気候変動で調整難しく
大井川は近年、渇水が頻発し、水利用者に求められる節水が長期化する傾向がみられる。直近では昨年12月から今年5月にかけ147日間に及んだ。複数の利水関係者は「気候変動で降水量に偏りが出ていて、水量の調整が難しくなっている」と背景を指摘する。
1994年は節水率が50%に達し、牧之原台地の茶が枯れ、もえぎ色の茶葉が赤く染まった。利水関係者は、リニアのトンネル工事で流量が減り、降水量減少など条件が重なれば同じ事態が起こりかねないと気をもむ。
工場は年間を通じて水を使うため、節水は企業の生産活動をも左右しかねない。渇水が深刻化すれば志太榛原、小笠地域の62万人の上水道にも影響が及ぶ。
■「水返せ」の思い今も 「本来の機能失った」
「昔は毎日のように川で泳いでいた。当時に比べて数メートルは河床が上がっている」
奥大井観光の拠点としてにぎわう川根本町の大井川鉄道千頭駅付近。蛇行する大井川の流れと対岸に堆積した砂利を眺めながら、大井川を再生する会の殿岡邦吉さん(70)がつぶやいた。少年時代に岩から飛び込んだという淵は消え、支流から流れ込む土砂の堆積も進む。「今の大井川は本来の川の機能を失ってしまった」
明治時代から水力発電所が次々と建設され、表流水がやせ細っていった大井川。上流からの水は導水管に消え、発電を繰り返しながら最下流部の中部電力川口発電所(島田市)へと届けられる。塩郷堰(えん)堤が完成すると下流部は「河原砂漠」と化し、一方の上流部は土砂の堆積や水害が問題化。旧川根3町(本川根、中川根、川根)では1980年代後半、官民による「水返せ運動」が熱を帯び、デモ行進や河川敷での決起集会につながった。再生する会の会員の多くは、運動を後押しした青年組織「モアラブ川根」の元メンバーだ。
運動は国も動かし、発電ダムの水利権更新に合わせた河川維持流量の確保が求められるように。中電との厳しい交渉の末、水利権の更新年だった89年、塩郷堰堤から毎秒3トン(冬場以外は同5トン)の放流が決定。運動の舞台は源流部に位置する田代ダムに移り、2006年の水利権更新に合わせて山梨県側の富士川水系に流れ出ていた水の一部を取り戻した。
全国にも影響を与えた運動から30年が経過したが、再生する会は「大井川の環境は決して良くなっていない」と危機感を抱く。19年の水利権更新を前に活動を再開し、当面は、水の濁りと土砂堆積▽塩郷ダムの利用▽魚道の改善-などをテーマに研究を続ける方針だ。
久野孝史会長(69)は電源開発という「国策」に翻弄(ほんろう)されたかつての水問題と、リニア中央新幹線工事に伴う流量減少問題を重ねつつ、「水問題は今始まったことではない。下流域での利用状況を含め、改めて大井川の環境を考えるべき」と強調する。
流量に加えて水質の変化を懸念するのは新大井川漁協の鈴木捷博組合長(76)だ。「ダム建設当時は皆、水がなくなることや濁水への危機感がなかったはず」と自戒を込める。「(リニア工事に)慎重に対応してほしいと思うのが当然。アユやウナギの遡上(そじょう)も見られなくなった川を、少しでも昔の姿に戻してあげたい」と願う。
■土砂堆積、流下能力低下
急峻(きゅうしゅん)な地形や多雨により土砂の供給が活発な大井川では、ダムの堆砂が進行し、利水能力の低下や河床の上昇などへの対応が課題となっている。
国土交通省中部地方整備局と流域自治体、電力会社などでつくる協議会が策定中の「大井川流砂系総合土砂管理計画」の素案によると、流砂系内のダム15基(塩郷堰堤を含む)のうち3カ所は満砂に近く、そのほかのダムでも、半数で堆砂率が50%超。長尾川合流点付近(川根本町)から上流約20キロ区間では、河床高が計画河床高と比較して1~2メートル程度高く(2015年時点)、「流下能力が著しく低い区間」とされた。
同区間を含む県管理区間では民間による砂利採取を進めるが、09年以降は骨材需要減などで進まず、目標値を下回る。上流部は特に進んでいないのが現状だ。
■大井川の「水返せ運動」の歴史
1960年 塩郷堰堤が完成、川口発電所への送水開始。下流で水枯れ、上流では堆砂などが問題となる
85年 川根3町による陳情や要望が活発化
88年 塩郷堰堤からの放流を求め、河川敷での住民集会やデモ行進を実施
89年 水利権更新、通年放流量毎秒3トンを義務付け(県、中電の覚書で冬場以外は同5トンを放流)
97年 河川法改正。河川環境の整備・保護の観点が加わる
2000年 大井川流域8町(当時)の首長らが「大井川の清流を守る研究協議会」を結成
03年 国や県、流域市町と電力会社による「大井川水利流量調整協議会」が設立
05年 田代ダムからの河川維持流量を毎秒0.43~1.49トンとすることで合意
■新東名で水枯れの教訓 茶業者「補償ルールを」
リニア中央新幹線建設に伴う大井川の流量減少問題では、流域の水資源に影響が出た場合の補償の在り方も焦点になっている。20年前、その教訓になりそうな事態が掛川市で起きていた。
新東名高速道建設中の1999年、掛川市の粟ケ岳トンネル工事中に出水が発生した。間もなく周辺の倉真地区で農業用水を採る沢が枯れ、東山地区では地下水を源とする簡易水道が断水した。
「切れたことのない沢が突然、2キロくらいの範囲で干上がった。驚いたし困ったよ」
粟ケ岳北麓で沢の水を使って茶園を営んでいた60代の男性は、当時のショックを振り返る。
着工前、日本道路公団(現中日本高速道路)の説明会が開かれたが「水枯れの可能性の話はなかった」と男性。断水後、地区の要望を受けた公団は、トンネル内の止水工事に加えて別の川から茶園へ約2キロの引水管路と中継ポンプを設ける補償的措置で応じた。
ただ、完成した管路は水が出ず、男性は不具合を訴えたが結局1度も使えなかったという。止水の効果も限定的で、男性は水を確保する負担と茶価安から生産を断念。金銭補償を求めて5年ほどたった昨年、中日本高速道路とようやく補償が成立した。
男性は「条件が提示され、交渉の余地はなかった。事前に補償のルールを決めていれば対応が違っていたはずだ」と悔やむ。
倉真地区では観光名所「松葉の滝」も一時水が絶えた。止水などで水量は3割ほど戻ったが、市や地区区長会は当初から完全回復を求めて要望を続けている。中日本高速道路は「経済的損害がないため対策はできない」との立場で、協議は長年、平行線のままだ。
地区役員の横地静雄さんは「滝はハイキングコースの目玉。何とか水量を戻したい。このまま協議打ち切りでは困る」と語気を強める。リニア中央新幹線の工事に対しても「補償の決めごとなしに工事をすべきでない」と粟ケ岳の苦い教訓が生かされるよう願う。
大井川水系の利水自治体は10市町。地中の水脈は複雑、広域に入り組んでいる。特に扇状地が広がる左岸は多くの工場や家庭が伏流水に依存しているだけに、南アルプストンネル工事に伴う水脈の変化がどのような影響を及ぼすか、影響と工事との因果関係は立証できるのか、有識者の間に懸念の声が目立つ。
松井三郎掛川市長は「水量、水質に影響が出た場合の補償の確約がなければ工事は認められない」と、地元の立場を強く訴えた。
■「丹那」も対応に苦慮
トンネル工事を巡る補償問題は全国各地で発生し、被害を受けた住民が対応に苦慮した事例は多い。県内では約100年前の東海道線丹那トンネル工事に伴う水枯れが有名だ。
函南町誌や鉄道省(現在の国土交通省やJR)の資料によると、トンネル真上の丹那盆地(函南町)はワサビを栽培できるほど水が豊富だったが、工事の進行とともに地下水脈が変化し、盆地内に水枯れが広がった。
飲料水に支障が生じるほどで、住民は鉄道省にたびたび救済を訴えたが、同省は当初、関東大震災の地下変動や降雨量減少のせいだとして本格調査に応じなかった。約10年で多額の補償を得たが、配分を巡って集落間で対立し、住民の襲撃事件にも発展した。同町の資料には「覆水盆に返らず」と記されている。
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