細川内ダムの情報
治水の在り方 藤田恵元木頭村長に聞く 球磨川氾濫因果関係検証不十分 「脱ダム」撤回短絡的
国の細川内ダム(徳島県)を中止に導いた藤田恵・元木頭村長(水源開発問題全国連絡会・顧問)のインタビュー記事を掲載します。
川辺川ダムを巡る最近の状況について重要な指摘をされています。
治水の在り方 藤田恵元木頭村長に聞く
球磨川氾濫因果関係検証不十分 「脱ダム」撤回短絡的
(徳島新聞 2020年12月27日)
(写真)「ダムは自然のサイクルを断ち切る」と話す藤田さん=徳島市内
近年頻発している豪雨災害を受け、脱ダムからダム建設へとかじを切る自治体も出てきた。
旧本頭村(現那賀町)に計画されていた細川内ダムの反対運動をけん引した藤田恵・元村長(81)=神戸市在住=は今の状況をとう見ているのか。
改めて冶水や公共事業の在り方について聞いた。(聞き手=木下真寿美)
―熊本県では7月豪雨で球磨川が氾濫した。県内ては65人の死者が出て、蒲島郁夫知事は2008年に自身が計画を撤回した川辺川ダム建設を国に求めた。住民の命を守る村長だった立場から、この方針転換をどう見るか。
現地には10回ほど行った。地元の人たちは、川底を掘削して流量を増やす工事など、ダムてはない冶水対策を求めていた。
しかし、国や県が(協議を重ねるだけで)放置した結果、今回の被害が起きた。
ダムの有無と死者が出たこととの因果関係については検証が不十分。「犠牲者が出たからタム」という判断は短絡的だ。
―ダムによる治水をとう考えるか。
救える命もあるかもしれないが、全てではない。ダムは、山の腐葉土が川から海に流れる自然のサイクルを断ち切る。海岸は痩せ、魚も減る。問題がたくさんある。
球磨川の治水については大熊孝新潟大名誉教授が「河床掘削や水害防備林の整備、建物の耐水化などで被害を最少に抑える」という提案をしており、これにほほ同意する。
加えて大事なのが、1950年代の国の「拡大造林」で失われた、保水力のある豊かな広葉樹林の再生だ。
今の間伐されない人工林は中に日が差さず、腐葉土もない。森林の保水力は格段に落ちているはずだ。
―森林の保水力については、川辺川ダム建設の反対派と推進派による共同検証で人工林や自然林、幼齢林で保水力に大きな差はなく、森林の整備により保水力の増大は期待できない」という結果が出ている。
短期での検証は不可能で、結果は疑わしい。森林回復が大雨時の河川流出量を3,4割程度減らすという東京大の蔵治光一郎教授らによる研究かある。
昔の広葉樹林は厚いスポンジ状の腐葉土が広がり、歩くと足首まで埋まっていた。
森林再生による洪水低減効果は極めて大きいと考える。
―扇千景建設相(当時)が「細川内ダムは中止」と宣言したのは2000年11月28日。「止まらない」と言われていた大型公共事業が止まった。
当時は、市町村長が国の公共事業に反対することはなかった。官僚もメンツを重んじ、先輩の路線を踏襲する。しかし、必要と判断して計画した公共事業でも状況は変わる。時代の変化とともに、公共事業を見直すルールをつくるべきだ。
細川内ダム中止20年 半生振り返る著書
旧木頭村に計画されていた細川内ダムが中止になって20年目となる今年、藤田恵・元村長が自身の半生を振り返った著書「木頭村 その山河が問いかけるもの」(東京シューレ出版、B6判、191㌻ 写真)を出した。
電電公社(現NTT)での労働組合活動を経て、53歳でダム問題に揺れる木頭村の村長に就いてから中止に至るまでの経緯を記している。
1950年代に建築資材の不足を受けて国か進めた拡大造林政策が山の荒廃を招いたと指摘する。
11人きょうだいの10番目に生まれ、5人の兄を戦場に送り出したことや、3歳で養子に入った叔父の家で仕込まれた農業や林業の仕事についても述懐。豊かな山と川に囲まれて働き、遊んだ体験がその後のダム反対運動に結び付き、大型公共事業の中止につながっていったこと分かる個人史になっている。
税別1600円。
(木下真寿美)
住民運動 国動かした二つの民意 細川内ダム中止/吉野川第十堰投票 「報道の力」も弾み /徳島
1990年代後半から2000年代前半はダム・堰の反対運動が大きく広がり、いくつかのダム・堰が中止になりました。徳島県では細川内ダム(旧木頭村(現那賀町))が中止、吉野川第十堰(徳島市)の可動堰化計画が実質中止になりました。
その当時を振り返った記事を掲載します。
住民運動 国動かした二つの民意 細川内ダム中止/吉野川第十堰投票 「報道の力」も弾み /徳島
(毎日新聞徳島版2019年4月26日)https://mainichi.jp/articles/20190426/ddl/k36/040/475000c
(写真)投票率が50%を越え住民投票成立が確実となり、喜ぶ「第十堰住民投票の会」のメンバー。代表世話人の姫野雅義さん(中央)と住友達也さん(右)=徳島市昭和町で2000年1月23日、小関勉撮影
5月1日に新元号「令和」となり、平成が幕を閉じる。平成に県内で起こった、旧木頭村(現那賀町)の細川内ダム建設中止運動と、吉野川第十堰(徳島市)の可動堰化計画を巡る住民投票は、いずれも民意が国を動かし、全国から注目を集めた。運動を成功に導くために大切にされていた思いを探る。【岩本桜】
徳島市中心部から車で約2時間半。さらに那賀町役場木頭支所から2キロほど西に車を走らせると、細川内ダムの建設予定地に着いた。見渡すと木頭杉に囲まれた民家や畑が並び、中央を流れる那賀川は透き通ったままだ。
(写真)細川内ダム建設に伴い設置された相談所について抗議する藤田恵木頭村村長(当時)=徳島県那賀町役場木頭支所提供
1971年、国によるダム建設計画が公になると、村は「環境破壊と過疎化に拍車がかかる」と反対運動を約30年続けた。2000年に国から中止が発表され、動き出したら止まらないといわれる国の公共事業を小さな村が中止に追い込んだとして、大きな話題となった。村長として運動の中心にいた藤田恵さん(79)は「運動のやり方次第で、小さな村でも国の方針を変えることができると実証できた」と振り返る。
(写真)建設中止になった細川内ダムの建設予定地=徳島県那賀町で2018年12月8日、本社機「希望」から加古信志撮影
1993年、「村に残された清流を子孫に残す義務がある」と使命感を抱く藤田さんが村長に当選すると、反対運動は激しさを増した。「報道の力」も運動の背中を押したという。報道機関に情報発信することでダム問題が全国的に広く知れ渡り、藤田さんも「報道で多くの国会議員などが問題視するきっかけになり、反対運動に弾みがついた」と実感する。2000年には、旧四国地方建設局が中止はやむを得ないとの方針を示し、その後正式に建設計画の中止を発表した。
反対運動に関わった那賀町議の大澤夫左二さん(83)は「藤田さんという意志のぶれない首長を迎え入れたことが大きな勝因だった」と断言。藤田さんや村民が一貫して反対姿勢を貫き、報道や政治家を巻き込んでダム問題を幅広く周知させたことが、計画中止の要因となった。
一人一人の意思
(写真)吉野川第十堰=徳島市で2018年10月28日、本社ヘリから小松雄介撮影
「運動を終えて、吉野川には『可動堰反対』という民意のモニュメントが建った。これは簡単には動かせない」。「第十堰住民投票の会」で事務局長を務めた移動店舗業、Tサポートの村上稔社長(52)は感慨深げだった。1991年、旧建設省(現国交省)より吉野川の第十堰を取り壊し、新たに可動堰を建設する計画が持ち上がると、可動堰建設の賛否を問う住民投票を実現させるため、姫野雅義さん(享年63歳)を中心に住民運動が起こった。
シンポジウムや集会などを通して「あなたはどう思いますか」と住民一人一人に問いかけ、投票で決めようと訴えた。同会の代表世話人だった、移動スーパーを運営するとくし丸社長の住友達也さん(61)は「可動堰の反対運動ではなく、賛成でも反対でも良いので投票で決めることに徹底的にこだわった」と強調する。「投票率50%以上」が住民投票の成立要件で、計画推進派は投票のボイコットをアピールした。「住民が自ら考え、意思表示をしよう」。住友さんが、運動を通して伝え続けた思いだ。
2000年に徳島市で住民投票が行われ、投票率は54・995%。うち反対票が約90%と圧倒的多数を占めた。結果を受けて国は建設中止へかじを切った。村上さんは「問題について住民が熟知した上で投票を行えた」と振り返り「国や権力による一方的な押しつけに対して、民意が勝利した。民主主義のテキストになる」と力強く話した。