川辺川ダムの情報
「7月の球磨川氾濫は、支流から始まる」ダム反対団体が独自に調査
7月の球磨川氾濫は、支流から始まったのであって、球磨川本流のはん濫によるものではなく、支流の氾濫で亡くなったのであるから、川辺川ダムがあっても救うことはできなかったという調査結果を市民団体が発表しました。
その記事とニュースを掲載します。
詳しくは、水源連総会資料の次の報告をお読みください。
水源開発問題全国連絡会 2020年総会資料 daa694c1763436981a4817adbf533fd2.pdf 14~16ページ
子守歌の里五木を育む清流川辺川を守る県民の会 中島 康さんの報告「7月4日球磨川水害報告」
水源連でも球磨川氾濫の解析を行って、同様な視点の意見書を提出しています。
水源開発問題全国連絡会 2020年総会資料 daa694c1763436981a4817adbf533fd2.pdf 63~74ページ(右上のページ数は29~40ページ)
「球磨川水害と治水対策に関する水源連の意見書」をお読みください。
豪雨の犠牲者20人中19人「支流氾濫が原因」 川辺川ダム反対派が独自調査 人吉市
(熊本日日新聞2020/12/12 11:00) https://this.kiji.is/710321834496999424?c=39546741839462401
(写真) 人吉市の地図などを手に説明する「清流球磨川・川辺川を未来に手渡す流域郡市民の会」の木本雅己事務局長(右)ら=11日、県庁
川辺川へのダム建設に反対する市民団体が11日、熊本県庁で記者会見し、7月の豪雨による人吉市の死者20人のうち、19人は「球磨川本流が氾濫する前に、支流の氾濫が原因で亡くなった」とする独自の調査結果を発表した。
清流球磨川・川辺川を未来に手渡す流域郡市民の会(人吉市)を中心に、災害の直後から調査。犠牲者の近所の人や浸水被害者約50人から話を聞き、防犯カメラの映像なども集め、水の流れと被害の実態を調べた。
その結果、支流から氾濫した水が、市内の低地である球磨川本流沿いに向かって急激に流れたため、19人は本流から水があふれる前の午前7時半すぎごろまでに亡くなったとした。支流別では万江川などが原因で4人、胸川などで2人、山田川や御溝(川)などの氾濫で13人が亡くなったとした。
猫を助けに自宅に戻ったとみられる女性(61)は亡くなった時間が推定できておらず、今後調べるという。
流域郡市民の会の木本雅己事務局長(69)は「支流が原因である以上、川辺川上流にダムを造って球磨川本流のピーク流量を下げても犠牲は減らない」と主張した。
これに対し、県球磨川流域復興局は「本流の水位が上がっていたため、支流の水が本流に流れ込めず、氾濫した」と分析。さらに、支流で氾濫した水の量は本流との比較では少量であり、「本流の水位を下げることが犠牲を減らすことにつながる」と説明した。(太路秀紀、堀江利雅)
人吉の犠牲「原因は支流氾濫」市民団体が調査結果公表
(西日本新聞 2020/12/12 11:00)https://www.nishinippon.co.jp/item/n/672688/
7月の熊本豪雨で氾濫した球磨川流域の被害について、熊本県人吉市の市民団体は11日、同市内の犠牲者20人のほとんどが中小支流の氾濫が原因だったとする現地調査結果を公表した。団体は「ダムがあっても命は守れない」と主張し、中小支流対策の重要性を訴えた。
調査は「清流球磨川・川辺川を未来に手渡す流域郡市民の会」などが豪雨直後から継続的に実施。約50人から証言を得たほか、痕跡から氾濫流の水位や流れの方向を調べた。
調査結果によると、20人が濁流にのまれた時間帯は7月4日午前6時半~同7時半ごろで、発見された場所は屋外と屋内が半々だった。球磨川本流よりも先に、支流の山田川や万江(まえ)川などが氾濫。犠牲者は低地に向かって勢いを増した強い流れにのまれたり、急激に水位が上がって逃げ遅れたりしたとみられるという。
同会は、犠牲者の状況も聞き取り調査。「山田川から水が来て避難の途中に流れ溺死」(屋外、下薩摩瀬町)▽「7時半頃、万江川から浸水。犬を助けようとして流れる」(屋外、下林町)-など詳細に記録している。木本雅己事務局長は「1人を除いて球磨川本流の流れで亡くなった人はいない。この1人も球磨川の氾濫か、事故かは不明」としている。
山田川については、県も10月に時系列の検証結果を公表。おおむね同会の調査結果と整合しているが、県は「下流から上流域に越水が進行」とする一方、同会は「上流から氾濫が始まった」と食い違う。
県河川課は山田川の氾濫は、本流の水位が上昇したことで支流の流れがはけきれず、下流からあふれ出す「バックウオーター現象」の影響を指摘。同会は「バックウオーターの形跡はみられない」とする。
蒲島郁夫知事は「命と環境を両立する」として最大の支流川辺川への流水型ダム建設を進める方針だが、木本事務局長は「大事なのは、死者を出さないためにどうしたらいいのかの検証。ダムで本流の水位を下げても命は救えない」と主張している。 (古川努)
犠牲者は支流の氾濫で 市民調査
(NHK2020年12月11日 16時40分) https://www3.nhk.or.jp/lnews/kumamoto/20201211/5000010829.html
7月の豪雨で人吉市内で犠牲になった20人について、市民団体が状況を調べたところ、全員が球磨川のはん濫によるものではなく、支流の氾濫で亡くなっていたなどとする調査結果をまとめました。
この調査は人吉市の市民団体、「清流球磨川・川辺川を未来に手渡す会」のメンバーらが、市内の浸水地域の監視カメラの映像や、およそ50人の住民などへの聞き取りをもとに、市内で犠牲になった20人全員の状況を調べました。
それによりますと、球磨川の流量がピークとなる3時間前の午前6時半から7時すぎの間に、支流の山田川や万江川などが急激に氾濫したのが原因で亡くなり、支流の水がせきとめられて水位が上がる「バックウォーター」の形跡は見られなかったとしています。
そのうえで、「人吉市の犠牲者は全員、球磨川のはん濫によるものでなく、支流のはん濫によるものだ。川辺川ダムが建設されて治水効果を発揮したとしても犠牲者を救うことは出来ない」としています。
これに対し、熊本県は、人吉市の犠牲者との因果関係は不明だが、球磨川の洪水によるバックウォーターで、山田川や万江川が氾濫したことはこれまでの検証で確認されているとしています。
市民団体の木本雅己事務局長は「今後、洪水による死者を出さないための検証がまず最初にあるべきで、それをせずに川辺川ダム建設を進めるのは不合理だ」と話していました。
「支流から氾濫始まる」ダム反対団体が独自に調査
(熊本放送2020/12/11(金) 18:33配信)https://news.yahoo.co.jp/articles/af7cc56fcc3e62941b60f302072f9c147184b215
7月豪雨でなぜ多くの人が亡くなったのか。 市民団体が支流の氾濫が原因だったとする調査結果を公表しました。
「球磨川本流の流れで亡くなった人はいない」(市民団体)
ダム建設に反対する市民団体は、これまでに約50人に聞き取り調査を実施。
その結果、人吉市で死亡した20人のうちほぼ全ての人が、球磨川がピーク流量となる数時間前には、支流の山田川や万江川の氾濫で避難中に流されたり、逃げ遅れたりしていたとの証言を得たということです。
市民団体は、知事が県議会で「人吉の死者は球磨川のバックウォーターで氾濫した山田川が原因」とする主旨の答弁を、ダムを作るための口実と非難しています。
中村敦夫末世を生きる辻説法 ダム建設中止一転し容認へ ぶれっぱなし熊本県知事の変節
中村敦夫さんの「末世を生きる辻説法」をお送りします。
蒲島郁夫熊本県知事はここに書いてあるように、信念の人ではありません。
何度か書きましたように、2008年の川辺川ダム建設計画白紙撤回は蒲島氏の本意ではありませんでした。だから、今回、あっという間に川辺川ダム推進に変わってしまったのです。
中村敦夫 末世を生きる辻説法 ダム建設中止一転し容認へ ぶれっぱなし熊本県知事の変節
(日刊ゲンダイ2020/12/04 06:00) https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/282188
権力の座に長く居続けると、脳みその回転が鈍くなり、誇りも覇気も消えてしまうのか。
今年4期目となる熊本県・蒲島郁夫知事は、08年に川辺川ダム建設計画を、自ら白紙撤回した。ところが、12年後の今になって、再び計画を復活させると発表し、周囲を仰天させている。
20年前には、財政赤字と環境破壊の元凶としてダム建設の不条理がやり玉に挙げられた。建設利権を死守したかったのはダム事業を天下りの宝庫と拝む国交省の役人や、日本中の河川にコンクリートを流し込み、税金を丸のみしようというゼネコン、土木企業、そしておこぼれを狙う族議員や自治体の長たちだった。
そんな時に川辺川ダム建設中止を決めた蒲島知事は一瞬、時代のヒーローのように賛美された。ところが、事情通によくよく聞くと、本人はぶれっぱなしの頼りない人格だそうである。
(写真)川辺川ダムの建設容認を表明した蒲島郁夫知事(C)共同通信社
権力の座に長く居続けると、脳みその回転が鈍くなり、誇りも覇気も消えてしまうのか。
今年4期目となる熊本県・蒲島郁夫知事は、08年に川辺川ダム建設計画を、自ら白紙撤回した。ところが、12年後の今になって、再び計画を復活させると発表し、周囲を仰天させている。
20年前には、財政赤字と環境破壊の元凶としてダム建設の不条理がやり玉に挙げられた。建設利権を死守したかったのはダム事業を天下りの宝庫と拝む国交省の役人や、日本中の河川にコンクリートを流し込み、税金を丸のみしようというゼネコン、土木企業、そしておこぼれを狙う族議員や自治体の長たちだった。
そんな時に川辺川ダム建設中止を決めた蒲島知事は一瞬、時代のヒーローのように賛美された。ところが、事情通によくよく聞くと、本人はぶれっぱなしの頼りない人格だそうである。
今年7月に熊本を襲った大豪雨で、川辺川が合流する球磨川が氾濫し、65人の死者が出た。
洪水対策については、これまでいろいろと議論があり、ダムを造らない流域治水の10種の方法が提案されていた。しかし、知事が具体的に計画を進めることはなく、予算不足を理由に放置してきた。
この日和見と決断力の欠如が、悲劇の原因となった。少しでも対策を実行していれば、被害の拡大に歯止めがかかったはずである。
さて、ここで惨事便乗型勢力の出番だ。国交省、自民党、ダム派の市町村長が勢いを盛り返し、川辺川ダム復活の大合唱が始まった。よろよろ知事は、さすがに全面降伏は恥ずかしかったのか、「民意に変化があった」と弁解。しかし、災害からまだ4カ月、民意の変化を知るほど現地の人々と話し合っていない。
国交省がここで悪知恵を出す。
「従来の貯留型ダムはやめ、流水型を採用するから、環境破壊もない。川辺川ダムがあれば、今回の浸水の60%は防げた」
流水型ダムは、ダムの上部と底の部分に穴を通し、水の流通をスムーズにする。土地の漁師たちに言わせれば、穴には流木やごみがひっかかり、そこへ流砂がたまり、ヘドロや洪水の原因になるという。60%の浸水を防げるというのも確かな根拠がない。しかもこれは貯留型ダムを想定した数字だ。ここらをすり替えるペテンは、もういい加減にしたらどうだ。
「原発は安全です」とどこが違う?
川辺川にダム推進…蒲島知事の方針転換、背景と課題は(熊日の総括記事)
川辺川ダム推進になった蒲島郁夫・熊本県知事の方針転換について熊本日日新聞の総括記事を掲載します。長文の記事です。
前にも述べたように、蒲島知事は元々、脱ダム派ではありません。2008年の川辺川ダムの白紙撤回を求める見解は蒲島知事の本意ではありませんでした。
当初はダム推進の見解を発表するつもりでしたが、その直前に、ダムサイト予定地の相良村長と、ダムの最大の受益地とされていた人吉市長が川辺川ダムの白紙撤回を表明したことにより、蒲島氏は予定を変え、「球磨川は県民の宝であるから、川辺川ダムの白紙撤回を求める」との見解を発表したのではないかと推測されます。
それだけに、今年7月の球磨川氾濫後の蒲島知事の方針転換はかなり早く、あっという間に川辺川ダム推進になりました。
しかし、川辺川ダム推進のために必要な、法に基づくアセス手続きは「4~6年」(環境省)と見込まれていますので、ダム中止に向けての闘いの余地はまだまだあると思います。
川辺川にダム推進…蒲島知事の方針転換、背景と課題は
(熊本日日新聞2020/12/2 17:52) https://this.kiji.is/706791124716831841?c=39546741839462401
熊本県の蒲島郁夫知事が2008年に「白紙撤回」した、球磨川の支流・川辺川へのダム建設計画が再び動き出す公算が大きくなった。ダム推進に方針転換した決断の背景と、今後の課題を追った。(野方信助、内田裕之、太路秀紀、臼杵大介、嶋田昇平、並松昭光)
※2020年11月に熊日朝刊に掲載した連載「熊本豪雨 川と共に」第5部「転換 知事表明の余波」全4回の記事をまとめ、写真・グラフィックを追加しました。文中敬称略
(写真)川辺川ダム計画で水没する予定となる五木村頭地地区。川辺川に架かる橋は、手前が頭地大橋、奥が小八重橋。左は頭地代替地。中央奥が相良村方面=10月16日(高見伸、小型無人機で撮影)
復興へ急いだ結論 蒲島知事「民意動いている」と自信
「現在の民意は命と環境の両立と受け止めた。これこそが流域住民に共通する心からの願いではないか」
11月19日、県議会本会議場で開かれた全員協議会。知事の蒲島はそう述べると、川辺川に流水型ダムの建設を国に求める考えを表明した。4期目がスタートして以降、最大の政治決断。蒲島は引き締まった面持ちで真っすぐ正面を見据え、その表情に迷いは見られなかった。
(写真)熊本県議会全員協議会で、川辺川に流水型ダムの建設を求める考えを表明した蒲島郁夫知事=2020年11月19日、県議会本会議場(後藤仁孝)
7月豪雨発生から4カ月余り。ダム議論再燃の口火を切ったのは蒲島本人だった。
「私が知事の間は(川辺川ダム)計画の復活はない」。豪雨災害の被害が明らかになり始めた7月5日、報道陣に球磨川の治水対策を問われ、蒲島はきっぱりと言い切った。
しかし、自民党県連はこの発言に気色ばむ。「被害の全容も分かっておらず、まだ人命救助の段階だ。ダムの是非に触れるには早すぎる」。幹部の1人であるベテラン県議はすぐに県幹部の電話を鳴らし、くぎを刺した。
その影響もあってか、翌6日、蒲島は報道陣とのやりとりで、軌道修正に動いた。「どういう治水対策をやるべきか、新しいダムのあり方についても考える」。ダムが治水論議のそ上に再び乗った瞬間だった。
その後、ダム建設容認の流れは加速した。流域12市町村でつくる川辺川ダム建設促進協議会は8月にダムを含めた治水策の実施を求める決議文を採択。自民も9月県議会などでダムの必要性をたびたび強調し、「決断次第では不信任案もあり得る」との強硬論も一部で聞かれた。
「今回は流域市町村がダムを望んでいる。自民党も(違う判断を)2度は許さないだろう」。蒲島が周囲に漏らすこともあったという。県幹部の1人も「あれだけの被害を受け、何もやらないのは行政の不作為を問われかねない」と心中を察した。
(写真)球磨川が氾濫し、大量の土砂が流れ込んだ人吉市街地。泥にまみれたピアノもあった=7月4日、同市九日町(高見伸)
10月、国土交通省が、川辺川ダムが存在した場合、人吉市で浸水面積が約6割減少との推定値を公表。蒲島は「ダムなし治水の実現性は遠い」と述べ、事実上ダムを含めた治水の検討に入った。
ただ、蒲島は民意の把握にもこだわった。10月中旬から住民らへの意見聴取会を計30回開催。10月末に共同通信が報じたダムの是非を問う調査結果も背中を押した。結果は反対がやや上回ったが、賛成者の6割超が豪雨後に賛成に転じていた。「私の肌感覚と同じ。反対一色だった2008年とは違う。民意は動いている」と自信を深めた。
この間、ダムに反対する市民団体などからは「ダムありきではないか」との批判が噴出。意見聴取会も過密な日程で組まれたため、“急ぎ足”の議論を疑問視する声も上がった。それでも蒲島は「治水の方向性が決まらないと、復旧復興プランを立てられない」と結論を急いだ。
(写真)県議会全員協議会で川辺川に流水型ダムの建設を求める考えを表明した後、記者会見に臨む蒲島郁夫知事=11月19日、県庁(後藤仁孝)
蒲島が目指す新たな治水は環境保全を強く意識した「緑の流域治水」だが、「国がどこまでやってくれるかはこれからの話。今日はあくまで出発点だ」と県幹部。計画から半世紀を超えても、住民の賛否が割れる川辺川ダム計画。県幹部の言葉はさらに続く道のりの険しさを物語っている。
流水型ダム、実現へ課題山積 能力は?環境アセスは?
知事の蒲島が、川辺川に流水型ダムの建設を国に求める考えを表明した翌日の11月20日、東京・霞が関。国土交通相の赤羽一嘉は同省大臣応接室で、蒲島に笑顔で向き合った。
「命と環境を守るという観点から、流水型ダム建設を含めた『緑の流域治水』をお願いしたい」(蒲島)
「全面的に受け止めたい。スピード感を持って検討に入らせていただく」(赤羽)
会談は終始、和やかな雰囲気で進んだ。12年前、現行の川辺川ダム計画を「白紙撤回」した17日後に蒲島が国交相金子一義(当時)と対峙[たいじ]した時とは正反対の光景だった。
(写真)赤羽一嘉国土交通相(右)と面会し、川辺川に新たな治水専用の流水型ダム建設を要請する蒲島郁夫知事=11月20日、国交省
河川や道路などインフラ整備で、自治体の要望に国交省トップが即答で「OKサイン」を出すのは異例だ。環境影響評価(アセスメント)のほか、ダム整備の方向性を流域市町村や住民と確認する体制づくりなどの要請も、ほぼ“満額回答”。会談終了後、蒲島は「(国と)同じ方向性を共有できた」と充足感を漂わせた。
県幹部は、7月豪雨を機に「白紙撤回」から方針転換した蒲島の思いに触れ、「知事は重い決断をした。国には県が求める環境対策は全てのんでもらう。それが(ダム容認の)条件だ」と明かす。
赤羽の発言を受けて同省は今後、球磨川水系で川辺川への流水型ダム建設を柱にさまざまな対策を総動員した「流域治水」の検討を加速させる。ただ、蒲島が「命と環境の両立」を託した流水型ダムには、課題も山積する。
流水型は環境負荷が少ないとされ、近年導入が増えたが、国交省によると完成済みは全国に5基のみ。「豪雨時の実績データがなく、環境への影響は不透明」(大熊孝・新潟大名誉教授)との指摘がある。
洪水調節能力についても同省治水課は「貯留型ダムと比べて知見や事例が少ない」と認める。貯留型の川辺川ダム計画を流水型に置き換えると国内最大規模になる見通しで、県幹部の中には「既存の流水型では、清流を守れるか疑問。さらなる技術確立を」との声もある。
さらに、赤羽が「全面的に(実施の)方向性で考えたい」と“約束”した環境アセスも不安がないわけではない。
川辺川ダムでは、特定多目的ダム法に基づく基本計画の策定(1976年)や一部変更(98年)はアセス法施行(99年)より前で、法律上のアセスは実施されていない。国は過去に開いた事業説明会などで、猛禽[もうきん]類など生態系の保全対策や調査結果を公開し、「既に法のアセスと同等の調査を実施している」との立場を取ってきた。
(写真)川辺川ダムの建設予定地。奥は五木村方面=11月16日、相良村(池田祐介、小型無人機で撮影)
法に基づくアセス手続きは「4~6年」(環境省)と見込まれており、10年程度とされる流水型ダムの完成時期にも影響する。蒲島が主張する「法に基づく環境アセス、あるいはそれと同等の環境アセス」が、どのような形で実施されるかは、不透明な状況だ。
蒲島の今回の上京日程には、自民党本部に加え、国交相ポストを握る公明党本部への要請も組み込まれた。県幹部の1人はその狙いを解説する。「ダムと環境の両立は容易ではない。環境政策を重視する公明の力添えも得たい」
「ダムによらない治水」 議論12年、合意形成できず
「ダムを建設しないことを選択すれば、流域住民に水害を受忍していただかざるを得ないことになる」。2008年8月25日、川辺川ダム建設への賛否表明を控えた知事蒲島郁夫に対し、当時の九州地方整備局長岡本博が強烈な一言を放った。
この一言は省内からも「言葉が過ぎる」と批判を浴びたが、「ダム以外での治水安全度向上は不可能だ」とする、ダムに固執する国交省の揺るぎない姿勢も透けて見えた。
9月11日、蒲島が白紙撤回を表明。国交省、県、流域市町村は共に「ダムによらない治水」を追求する立場に立たされた。しかし、八ツ場ダム(群馬県)建設を巡る住民訴訟にも関わった東京弁護士会所属の弁護士、西島和[いずみ](51)は、この12年間の議論を「ダムによらない治水を検討するふりをする議論だった」と切って捨てる。
(写真)「ダムによらない治水を検討する場」の初会合で、流域の市町村長の話を聞く九州地方整備局長と蒲島知事(中央)=2009年1月13日、県庁(横井誠)
西島は、河道掘削など球磨川の河川改修関連予算の推移を見れば一目瞭然という。ダム計画が中止になった09年度以降、国の予算に県や市町村分を合わせても予算は年間15億~30億円程度で、08年時点の残事業費が約1300億円だったダムと比べて大きな開きがある。「ダムを造る事業費は認めるが、通常の河川改修には予算をつけないという姿勢がうかがえる」
12年間の治水議論は、対策を巡って利害が対立した流域市町村の姿もあぶり出した。
「ダムによらない治水を検討する場」(09年1月~15年2月)に続き、仕切り直して15年3月に国交省、県、流域12市町村で設けた「球磨川治水対策協議会」。ダム新設以外の治水策を検討する中、中流部の河道掘削に対しては当の球磨村から「瀬も全面的に掘削すると球磨川のイメージが悪くなる」と慎重な姿勢を示した。
川幅を広げる引堤[ひきてい]や堤防のかさ上げには、対象の人吉市が「中心部の大規模な移転を伴い、交渉などに年数がかかる」。遊水地の整備は、錦町やあさぎり町が「優良農地が失われる」と危ぶんだ。
市房ダムの改修に水上村が難色を示し、川辺川と球磨川下流を放水路でつなぐ案に八代市が懸念を表明。まさに“総論賛成、各論反対”の様相を呈した。
結局、最大1兆2000億円の事業費、200年の工期という「実現不可能」な数字を国交省が示したこともあり、市町村の意見の一致を見ないまま、7月の豪雨を迎えた。
結論を得られなかった原因について、12年前から議論に加わっていた元人吉市長の田中信孝(73)は「50年後、100年後でもダムを建設してみせるぞという国の意図もあるが、県が議論を主導しきれなかったからだ」と指摘する。
(写真)2019年11月にあった球磨川治水対策協議会。結局、この場で対策を決められないまま、2020年7月の豪雨を迎えた=熊本市
蒲島が今年11月19日に表明した新たな治水方針「緑の流域治水」の議論は、15年に設けた治水対策協議会を衣替えし、九州農政局や熊本地方気象台も加えた「球磨川流域治水協議会」の場に移る。だが、流水型ダムの新設以外、河道掘削や遊水地など実現できなかった対策の“総動員”を目指す方針は説得力に乏しい。蒲島のリーダーシップが試される。
ダム以外の治水論議欠かせず 避難体制の議論後回し
「避難場所が浸水して使えなかった」「避難に使う道が水没した」-。熊本県が10月中旬から実施した球磨川流域住民らへの意見聴取会。住民らの訴えは、急激に水位が上昇する中での避難行動の難しさを浮かび上がらせた。
(写真)球磨川治水に関する住民の意見を聴く会では、川辺川ダムの賛否を巡り、さまざまな意見が相次いだ=10月15日、人吉市(後藤仁孝)
知事の蒲島郁夫が球磨川治水対策の大方針として掲げた「緑の流域治水」。ダムや河床掘削、宅地かさ上げなどのハード整備と、避難体制の強化などソフト対策を含めた総合的な治水対策を意味するが、柱となるべきソフト対策の充実に向けた具体的検討はこれからだ。
県が、国や流域市町村と取り組んだ豪雨の検証委員会では「ダムによらない治水」と川辺川ダムが存在した場合の治水効果に議論が集中し、ソフト対策の議論はほとんど交わされなかった。
「避難勧告などが雨音の影響や電話回線、ネット回線の断線で十分に伝わらなかった」「住民が宅地かさ上げなどの河川整備で安全と判断し、避難が遅れた事例があった」。全134ページの報告書のうち、ソフト対策や初動対応の説明はわずか26ページにとどまる。
(写真)熊本豪雨で浸水した人吉市街地。奥が球磨川にかかる大橋=7月4日午前9時20分ごろ、人吉市寺町
内容も被災6市町村が避難所を開設した時間や避難勧告・避難指示を出した時間などを時系列でまとめただけ。深夜に避難情報を発信した自治体も多く、情報提供のタイミングが適切だったかなど課題は山積したままだ。
県は当面の対策として、ハザードマップ作成などで市町村を支援。県幹部は、本年度内に国と示す緊急治水対策プロジェクトで、情報発信の在り方など短期間に取り組むソフト対策のメニューをまとめると言い、「しっかり強化を進めていく」と話す。
ただ、識者からは検証の不十分さを指摘する声が出ている。熊本大准教授の竹内裕希子(地域防災学)は「避難所開設が遅くなった経緯などを具体的に検討して課題をはっきりさせなければ改善は進まない」と指摘。「ダムはどこで雨が降るかで治水効果が変わる。複数の降雨パターンを想定したシナリオを作り、避難行動に生かすことも必要だ」と訴える。
来年の梅雨に向け、当面のハード対策も喫緊の課題となる。特に流域住民の不満と懸念が根強いのが河川への土砂堆積問題だ。
「昔より川底に土砂がたまっており、洪水の原因になったのでは」「掘削を要望しても全然進まない」。意見聴取会では人吉市や相良村など多くの地域で、河床掘削を望む声が相次いだ。
(写真)熊本豪雨では球磨川やその支流に多くの土砂が堆積した=8月30日、球磨村神瀬(小野宏明)
「暴れ川」とも呼ばれ、洪水の危険性が指摘されている球磨川流域で、なぜ基本的な治水対策が進まなかったのか。県幹部はその理由を「予算に限りがあり、市町村の要望があった全ての場所には対応できなかった」と明かす。
県は今回の7月豪雨で、県南地域を中心に県管理127河川に計107万立方メートルの土砂が堆積していると推計。20年度に確保した掘削予算28億円をさらに増額して来年の梅雨時期までの撤去完了を目指す方針だ。
「ダム完成まで何もしないのではなく、できることをどんどん進める」と強調する蒲島。新たなダム計画が皮肉にも、これまで遅れてきたダム以外の治水対策を加速させる糸口となっている。
復活・川辺川ダム/下 大規模流水型、前例なく 環境への影響、払拭されず /中 五木村「対立の歴史再び」
毎日新聞東京夕刊の連載記事「復活・川辺川ダム」の(中)と(下)を掲載します。(中)の記事は(下)の記事の下にあります。
(下)では既設の流水型ダムで最大の益田川ダムの問題を取り上げています。
益田川ダムについて次の問題が書かれています。
「流水型は魚類の移動を妨げないとされる。ただ、島根県が06年度、益田川ダムの上下流でアユが川の藻類を食べた跡の数を調べたところ、下流側より上流側が少なかった。県は「(ダムの)水路部が(遡上(そじょう)の)阻害要因の一つと考えられる」としている。」
「また、ダムの下流域では、毎日新聞の取材に「ダムができてから下流に一定以上の水が流れなくなり、川に土砂がたまりやすくなった」と証言する住民もいた。」
益田川ダムができてから、まだ15年しかたっておらず、これから種々の問題が出てくることが予想されます。、
そして、益田川ダムは総貯水容量675万㎥です。一方、川辺川ダムの元の計画は総貯水容量13300万㎥、洪水調節容量8400万㎥、堆砂容量2700万㎥でしたから、治水目的だけでつくるとすれば、8400万㎥+2700万㎥=11100万㎥の容量になります。
流水型ダムとして川辺川ダムをつくるとすれば、川辺川ダムは益田川ダムの16.4倍(11100万㎥÷675万㎥)という、けた違いに大きい流水型ダムとなりますので、どのようなことになるのか、予想が付きません。
復活・川辺川ダム/下 大規模流水型、前例なく 環境への影響、払拭されず
(毎日新聞東京夕刊2020年11月28日) https://mainichi.jp/articles/20201128/dde/041/040/023000c
(写真)流水型の益田川ダムの「貯水池」。平常時は水がたまっておらず、整備されたグラウンドゴルフ場は地元の人らでにぎわう。斜面や橋の橋脚に満水時の水位が青色で表示されている=島根県益田市で2020年11月9日午後2時33分、平川昌範撮影
11月初旬、島根県益田市にある益田川支流の河畔は、グラウンドゴルフを楽しむ人たちでにぎわっていた。この場所は、約1キロ下流の益田川本流にダム本体がある「益田川ダム」の貯水池(ダム湖)の底に当たる。木々で色づく山へと続く対岸の斜面や、川に架かる橋の橋脚に「満水位」と書かれた青色の印が見えた。ただし、流水型で建設された同ダムが満水になったのは2005年の試験時だけ。翌年のダム完成後、グラウンドゴルフ場が水につかったことは一度もない。
普段はダム本体底部の水路を通って川の水がそのまま流れ、大雨時だけ水路からあふれた水が自然にたまる治水専用の流水型ダムは、常時水をためる貯水型ダムに比べ環境への影響が小さいとされる。川辺川でのダム建設を容認した熊本県の蒲島郁夫知事が国に要請したのも流水型だ。反対運動の末に、豪雨被害を受けて流水型ダムで決着した経緯も益田川ダムと重なる。
県営の益田川ダムは1972年7月に発生した豪雨をきっかけに計画された。地元の美都町(みとちょう)(現益田市)で反対運動が起きたが、83年に益田川の氾濫などで県内の死者・行方不明者が107人に上る甚大な豪雨被害に再び見舞われたことで風向きが変わった。後に美都町長を務めた寺戸和憲さん(72)は「畳に挟まれた遺体も見つけた。反対ばかり言うわけにはいかんと思うようになった」と振り返る。
住民らは89年にダム建設の補償交渉で合意した。20戸以上が移転を強いられたが、河畔にはグラウンドゴルフ場のほか、サッカー場や屋根付きスポーツ施設も整備された。一帯に植えられた桜並木には毎年大勢の花見客が訪れ、近年は市街地からの移住者もいる。寺戸さんは「流水型だからこそ、安全と地域のにぎわいにつながった」と考えている。
農林水産省によると、流水型ダムは50年代ごろに農地防災ダムとして各地で造られたが、あくまでも農地を守るためのごく小規模なもので、下流域の被害軽減を目的とした国土交通省所管の流水型ダムは益田川ダムが最初のケースだ。その後、最上小国川ダム(山形県最上町)▽浅川ダム(長野市)▽辰巳ダム(金沢市)▽西之谷ダム(鹿児島市)――の4ダムが完成し、現在も熊本県南阿蘇村の立野ダムなど複数のダムが建設中だ。
これら先行する流水型ダムは川辺川に建設されるダムのモデルケースになるのか。益田川ダムを視察したことのある球磨川流域のある首長は「規模が違いすぎて参考にならなかった」と語る。完成済みの5ダムのうち、最大の益田川ダムでも本体の高さ48メートル、総貯水量675万トン。一方、貯水型の現行の川辺川ダム計画は本体の高さが107・5メートル、利水分を除いた洪水調節用の貯水量は8400万トン。発電や農業用水などに使われる利水用の水をためる必要がない流水型になれば、本体の高さをもう少し低く抑えられる可能性があるとはいえ、けた違いだ。
環境への影響の懸念も払拭(ふっしょく)されていない。流水型は魚類の移動を妨げないとされる。ただ、島根県が06年度、益田川ダムの上下流でアユが川の藻類を食べた跡の数を調べたところ、下流側より上流側が少なかった。県は「(ダムの)水路部が(遡上(そじょう)の)阻害要因の一つと考えられる」としている。また、ダムの下流域では、毎日新聞の取材に「ダムができてから下流に一定以上の水が流れなくなり、川に土砂がたまりやすくなった」と証言する住民もいた。
蒲島知事が08年に川辺川ダム計画を「白紙撤回」する直前、国交省は流水型での建設を提案していたが、知事は「環境への影響や技術的な課題について詳細な説明がない」と受け入れなかった。その状況がこの12年で大きく変わったわけではない。水没予定地の五木村の前村長で川辺川ダム問題に長年関わってきた和田拓也さん(73)は「あまりにも不確定要素が多すぎる」と懸念する。(この連載は平川昌範、城島勇人、吉川雄策が担当しました)
復活・川辺川ダム/中 五木村「対立の歴史再び」 水没予定地、整備計画も不透明に
(毎日新聞東京夕刊2020年11月27日) https://mainichi.jp/articles/20201127/dde/041/040/028000c
(写真)川辺川ダムの建設計画に伴って高台に移転した住宅地(右)。流水型ダムでも左奥から流れる川辺川周辺は水没する可能性がある=熊本県五木村で2020年11月17日、本社ヘリから津村豊和撮影
「今回の決断に際し、私は川辺川ダム問題に長年翻弄(ほんろう)され続けてきた五木村の皆様のことが頭から離れなかった」。熊本県の蒲島郁夫知事が川辺川でのダム建設を容認すると表明した19日、同県五木村の木下丈二村長は出張先の東京にいた。永田町近くの都道府県会館の一室でインターネット中継を見ながら、木下村長は、知事がダムで水没する五木村に言及するのを複雑な思いで聞いていた。
「正直言うと12年前の方がショックが大きかった。今回は元に戻ったという感じだ。でも住民からすれば、なぜ今さらという思いは当然あるやろうね」。2008年に蒲島知事が川辺川ダムの「白紙撤回」を表明したことを受け、旧民主党政権がダム中止を決めた09年当時、副村長を務めていた木下村長は言う。
1966年に五木村の中心部が水没するダム計画が発表されると、村では激しい反対運動が起きた。85~07年の村長で、現在は村議の西村久徳さん(84)は、ダム計画が村の人間関係を壊す姿を見てきた。賛成派と反対派に分かれ、仲良かった住民が「あいつの家族の結婚式には行かない」といがみあい、口を利かなくなった。それぞれが「俺たちの言う通りにやれば村は再生する」と主張し、村はバラバラになった。
国が補償条件を示すようになると、心が揺れる村民も増えた。「あの人はもう受け入れたらしい」などのうわさが飛び交った。「裏切り者」と後ろ指をさされるのを恐れ、夜逃げ同然で村を離れる人たちもいた。「村長として、本当につらかった」。西村さんは96年、村長としてダム本体工事に同意する。その後、村は山村復興を意味する造語の「ルネッサンソン計画」と称し、ダム湖ができるのを前提にした観光振興などの村づくりを構想した。
ところが、知事による白紙撤回で構想は振り出しに戻った。水没も免れたが、既に予定地の住民はほぼ全員が移転を終えていた。村内の高台に整備された新しい住宅地だけでなく、村外に引っ越した住民も多く、ダム計画が明らかになる66年の前年に5000人近かった人口は、知事が白紙撤回を表明した08年には3分の1以下の約1400人にまで減っていた。
「ダムを造らないなら残りたかった」。村で民宿と食堂を営む田中加代子さん(60)は小中学校時代の同級生からそんな恨み節を何度となく聞いた。ダム計画が持ち上がったのは田中さんが小学生になる少し前。同級生約50人のうち約30人が「よそに行くけん」と村を去った。「残っていれば村の担い手になっていただろう」と思うが、いまも村に残る同級生は自身を含め7人しかいない。そして、今回のダム容認表明。田中さんは「再び対立が生まれ、村はまた混乱する」と心配する。
県はダム計画を白紙撤回した後、「五木村が国や県の政策に翻弄された」として、独自に村への財政措置を始めた。09年以降、総額10億円の基金を設け、11年にも50億円の追加支援を決定。本来は国の予算が充てられる国道整備などハード事業にも使われた。村は水没予定だった川沿いの土地を国から借り、運動公園や宿泊施設などを整備。08年に約13万人だった観光客が19年には約17万人に増えるなど、「日本一の清流」を生かした新たな村づくりが軌道に乗り始めたところだった。
しかし、12年の時を経て再びダムができることになり、水没予定地の活用をはじめとした村の将来像はまたも不透明になった。蒲島知事は20日、白紙撤回した貯水型ダムではなく、大雨時だけ水がたまる流水型ダムでの建設を国に要請した。実現すれば普段は水没しないが、大雨の時は水につかるため、せっかく整備した宿泊施設の移転などは免れない。一方で、かつて描いたような、ダム湖を生かした観光も不可能だ。
知事は23日、五木村を訪問し、木下村長に基金を10億円積み増す方針を伝えた。だがこの間、人口はさらに減り10月末現在で1034人になった。分断の歴史の中で衰退した地域の再生は容易ではない。木下村長は言う。「現状に合わせて新しい絵を描くしかない」
復活・川辺川ダム /上 「命と環境両立」知事葛藤 撤回から容認「流水型」もいばらの道
蒲島郁夫・熊本県知事の川辺川ダム建設容認の表明について毎日新聞東京版の連載記事(上)を掲載します。
この記事では蒲島知事が苦渋の選択で川辺川ダム建設容認に踏み切ったというニュアンスで書かれていますが、私の見方は異なります。
蒲島氏は川辺川ダムの白紙撤回を求めた知事として評価されていますが、もともと、蒲島氏は決して脱ダム派の知事ではありません。
蒲島氏は前にも書きましたが、全く不要な熊本県営の路木ダム事業を強引に推進し(住民が路木ダムへの公金支出停止を求めた裁判の一審判決では住民側が勝訴したが、二審では住民側が敗訴)、阿蘇の自然を壊す直轄・立野ダムの検証で事業推進を求める意見を出し、また、荒瀬ダムに続いての撤去が熱望されていた瀬戸石ダム(電源開発(株))の水利権更新に同意しました。
荒瀬ダムについても潮谷義子前知事が決めた撤去方針を変えようとしましたが、その方針を変えるためには球磨川漁協の同意が必要となっていたことから、やむなく撤去することにしたようです。
川辺川ダムについては、蒲島氏は2008年、就任早々「川辺川ダム事業に関する有識者会議」を設置しました。有識者会議の答申は、委員8人の意見が5対3で分かれ、推進の方向が強い内容でした。
この答申を受けて、蒲島氏は推進の方向に舵を切ろうと考えていたと思われますが、その見解を発表する前に、ダムサイト予定地の相良村長と、ダムの最大の受益地とされていた人吉市長が川辺川ダムの白紙撤回を表明したことにより、蒲島氏は予定を変え、「球磨川は県民の宝であるから、川辺川ダムの白紙撤回を求める」との見解を発表したと、私は推測しています。
川辺川ダムに対して懐疑的な姿勢をとり続け、荒瀬ダム撤去の路線を敷いた潮谷義子前知事は信念の人であると思いますが、蒲島氏はそうではなく、所詮はオポチュニストではないでしょうか。
復活・川辺川ダム
/上 「命と環境両立」知事葛藤 撤回から容認「流水型」もいばらの道
(毎日新聞東京夕刊2020年11月26日) https://mainichi.jp/articles/20201126/dde/041/040/015000c
(写真)川辺川ダムの建設容認を表明する蒲島郁夫知事=熊本市中央区で2020年11月19日、矢頭智剛撮影
熊本県南部が記録的な豪雨に襲われた7月4日、蒲島郁夫知事は早朝から県庁新館10階の防災センターに詰め、球磨川に設置された監視カメラから送られてくる映像を信じられない思いで見つめていた。モニターには、氾濫した球磨川の濁流にのみ込まれていく人吉市や球磨村などの様子が刻々とリアルタイムで映し出されていた。
一緒にいた幹部の一人は、蒲島知事のつらそうな表情を覚えている。「知事は川辺川ダムを白紙撤回した責任者であり、当事者だから」。豪雨により県内では65人が死亡し、2人が今も行方不明のままだ。「重大な責任を感じている」。11月19日の県議会全員協議会でダム建設容認を表明した蒲島知事はそう語った。
球磨川の治水対策として国が支流の川辺川に計画したダム建設を、知事が白紙撤回したのは2008年9月。翌年に旧民主党政権が中止を決めた後、国や県はダムによらない治水策を模索したが、実現しないまま、今回の豪雨で甚大な被害を受けた。ただ知事は、豪雨翌日の段階では「改めてダムによらない治水を極限まで検討する必要を確信した」と述べ、ダムなしでの治水をあきらめない姿勢を示していた。
ところが、ダム建設の復活を目指す国などの急速な動きに知事ものみ込まれていく。国土交通省は豪雨当日、同省OBの天下り先でもあるコンサルティング会社に、氾濫した球磨川の流量解析などの業務を依頼し、後日、約2000万円で契約。国はコンサルの分析などを基に、豪雨被害検証委員会の第1回会合(8月25日)で「川辺川ダムがあれば、人吉地区の球磨川のピーク流量を約4割減らせた」、第2回会合(10月6日)では「人吉地区の浸水面積を約6割減らせた」と、ダムの効果を強調する推計を次々と提示した。
呼応するようにダム建設を求める流域市町村長や自民党県議らの声が高まる中、知事の発言もダム容認に傾いていく。第1回検証委の翌日に開かれた記者会見では「新しい水害により私自身も熊本県政も変わらなければならない」と述べ、川辺川ダムを「選択肢の一つ」と明言。第2回検証委の当日には、国の推計を「科学的、客観的に検証してもらった」と手放しで評価し、ダムによらない治水策を「非現実的な印象を受けた」とまで言い切った。
「民意を確認する旅に出よう」。この頃、蒲島知事と県幹部はそう話し合っていた。政治学者で、08年4月の就任前は東京大教授だった知事は「世論調査の専門家」を自任する。10月半ばから約1カ月かけて30回にわたって住民らの意見を聞く「意見聴取会」が始まった。県幹部らにとって予想外だったのが、球磨川の氾濫で住まいを失うなどした被災者の間にも「ダム反対」の声が多かったことだ。
ダムによる環境破壊を懸念する流域の世論も踏まえ、知事がたどり着いたのが、利水用の水をためる貯水型のダムではなく、普段は川の水をそのまま流し、大雨時だけためる治水専用の「流水型ダム」だった。「命と環境の両立が流域住民に共通する心からの願い。流水型ダムを加えることが現在の民意に応える唯一の選択肢だと確信するに至った」。県議会で知事はそう説明した。
知事の決断の背景には、国交省との関係の変化も大きい。就任5カ月後に白紙撤回した当時、知事は「ダムによらない治水の努力を極限まで行っていない」と批判するなど、国交省への不信感をあらわにしていた。しかし、16年に起きた熊本地震からのインフラ復旧で国交省に頼らざるを得なくなったことで関係が変化。19日の記者会見では「国交省の技術力を深く信じている」と持ち上げた。
その知事は容認表明から一夜明けた20日、早速、赤羽一嘉国交相と面会し、流水型でのダム建設を要請。「スピード感をもって検討する」との言質を引き出し、川辺川に流水型のダムが建設されることが事実上決まった。
もっとも、知事が目指す「流域治水」はダムができれば完成ではない。農地を遊水地とすることへの農家からの反対なども予想され、課題は山積している。ある県幹部が言う。「これはゴールではなくてスタート。これからが本当のいばらの道だ」
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地域を二分した長年の反対運動の末、一度は計画の中止が決まった川辺川でのダム建設が復活に向けて再び動き始めた。背景や課題を追う。