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石木ダム問題に関する連載記事「混迷 石木ダム 用地収用」その1~6

2019年9月26日
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石木ダム問題に関する長崎新聞の連載記事「混迷 石木ダム 用地収用」1~6を掲載します。

1 <傷跡> よぎる「強制」の記憶

2 <空手形> 「最初からだますつもり」

3 <事業認定> 「話し合い」狙うも進まず

4 <分断> 意志が弱かったのか…

5 <水需要予測> 過大か適正か議論平行線

6完 <県民の視線> 賛否の議論 盛り上がらず

その5は佐世保市水道の水需要予測の問題です。
佐世保市水道の水需要予測が実績を無視した架空予測であることは佐世保市水道の水需給グラフのとおり、明瞭です。

用地収用・1 <傷跡> よぎる「強制」の記憶
(長崎新聞2019/9/21 09:46) https://this.kiji.is/547942912776160353?c=174761113988793844

(写真)「ダム建設絶対反対」を訴えるやぐらのそばで、強制測量の記憶をたどる松本さん=川棚町岩屋郷

長崎県と佐世保市が東彼川棚町に計画する石木ダム建設事業で、全ての未買収地約12万平方メートルは20日午前0時、土地収用法に基づき県と同市が所有権を取得した。その一角の川原(こうばる)地区には反対住民13世帯約50人が暮らす。11月18日には家屋など物件がある土地の明け渡し期限となるが、住民側は応じない構えだ。事業採択から40年以上の長期にわたる公共事業は、なぜ混迷を極めたのか。経緯を振り返り、公と個で引き裂かれた人々の姿を見つめた。
降りだした雨が、収穫を待つ稲穂やダム反対の看板をぬらした。自然豊かな田園風景のあちこちに看板が立ち並ぶ。「小さいころから当たり前の光景」。反対運動のシンボルでもあるやぐらのそばで、住民の松本好央(44)は笑った。
父と鉄工所を営み、13世帯で最も多い4世代8人で暮らす。ダム事業が国に採択された1975年に生まれ、「ダム問題とともに育った」。結婚前、地元に連れてきた妻の愛美(45)の表情がこわばるのを見て、看板だらけの光景が「異常」と初めて気づいた。
20日朝、家族では特にダムの話題は出なかった。土地の権利が消えても、日々の暮らしは続く。家屋など物件を含まない土地が対象だった19日に続き、自宅など物件を含む残りの土地の明け渡し期限が11月18日に迫る。強制的に住民を排除し、家屋を撤去する行政代執行がいよいよ現実味を帯びてきた。「奪われてたまるか」と思う半面、少年時代の暗い記憶が脳裏をよぎる。
82年5月、県は機動隊を投入して土地収用法に基づく立ち入り調査(強制測量)に踏み切り、抵抗する住民らと衝突した。当時小学2年生だった好央も学校を休み、測量を阻止する座り込みに加わった。機動隊員らが駆け足で農道を突き進んでくる。恐怖で震える手を仲間たちとつなぎ、「帰れ」と叫んだが次々と抱え上げられ、排除された。
当時の知事、高田勇は就任から3カ月足らずで強硬手段に出た。当時の県議、城戸智恵弘(85)は「前任の久保(勘一)さんなら、絶対にやらなかった」と分析する。「大事業には『一歩前進二歩後退』くらいの度量が必要。官僚出身の高田さんや彼を支える側近には、そうした政治的視点がなかった。結果、取り返しが付かない禍根を残した」
もし県が代執行を強行すれば、当時以上の恐怖を子どもたちが味わうかもしれない。ダム問題が亡霊のように付きまとう人生を、子どもたちに科してはいないか。父となった今、好央はそんな葛藤も抱く。
中村法道知事と地元住民が約5年ぶりに県庁で面会した19日、長女の晏奈(はるな)(17)が「古里を奪わないで」と訴えるのをそばで聞いた。誰かに教えられなくても、自分の言葉で、自分の気持ちを伝える姿を誇りに思った。帰宅後、家族でケーキを囲み、この日が誕生日だった妻を祝った。家族がいて、古里がある。このささやかな幸せを守りたい。混沌(こんとん)とした状況の中で、そう願っている。=文中敬称略=


混迷 石木ダム 用地収用・2 <空手形> 「最初からだますつもり」

(長崎新聞2019/9/22 16:10) https://this.kiji.is/548327777817674849?c=39546741839462401

(写真)「建設は地元と同意の上で着手する」する旨の県との覚書の写しに目を落とす岩本さん=川棚町岩屋郷

長崎県と佐世保市が東彼川棚町に計画する石木ダムの建設予定地に暮らす岩本宏之(74)は、古いファイルから書類を取り出し、目を落とした。1972年、県がダム建設の予備調査の同意を得るために、地元3地区と交わした「覚書」。「乙(県)が調査の結果、建設の必要が生じたときは、あらためて甲(地元3地区)と協議の上、書面による同意を受けた後、着手する」-と記されている。
だが半世紀近くたった今、覚書は事実上の“空手形”となっている。3地区の一つ川原(こうばる)地区の13世帯は、土地収用法に基づく県側の手続きで今月、宅地を含む土地の所有権を失った。「行政が堂々と約束を破っていいのか」。岩本は吐き捨てる。
川原で生まれ育った岩本が初めてダム計画を耳にしたのは62年。高校生だった当時、県が業者に委託した現地の測量をアルバイトで手伝った。その後、町が無断の測量に抗議し、中止になったという。
その約10年後、県は正式にダム建設に向けた予備調査を町と地元3地区に申し入れた。「覚書」はこの時期に交わされたものだ。3地区は「県が覚書の精神に反し、独断専行あるいは強制執行などの行為に出た場合は、(町は)総力を挙げて反対し、作業を阻止する」とした覚書を町とも結んだ。
ところが予備調査の結果、県は「建設可能」と判断すると計画を推し進め、75年には国が事業採択した。不信感を募らせた地元住民は反対運動を本格化。79年6月には当時の知事、久保勘一が現地を訪れ、住民の説得に当たった。県がまとめた談話によれば「決してなし崩しにできません。全部の話がつかなければ前進しないんですから」と発言している。
だが82年、久保の後継で知事に就任した高田勇が強制測量に踏み切り、住民との亀裂が決定的になった。岩本は「地元を無視して強行に物事を進め、過去の約束も平気でほごにする。県の態度は最初からずっと変わらない」とため息をつく。今月19日、約5年ぶりに実現した中村法道知事との面会で覚書の有効性をただしたが、中村は「(係争中の)訴訟の場で明らかになると思う」と述べるにとどめた。「最初からだますつもりだった。あの時、予備調査を受け入れなければ…」。土地の権利を失った今、そう言って悔やむ。=文中敬称略=


混迷 石木ダム 用地収用・3 <事業認定> 「話し合い」狙うも進まず

(長崎新聞2019/9/23 10:19) https://this.kiji.is/548675641380275297?c=174761113988793844

(写真)事業認定申請に踏み切ることを表明する金子知事(当時、中央)ら=2009年10月13日、旧県庁

「法的な手続きの中で話し合いが促進するよう誠心誠意対応したい」-。2009年10月。県と佐世保市が東彼川棚町に計画する石木ダム建設事業で、金子原二郎知事(当時)は朝長則男市長、竹村一義町長(当時)と県庁で会見し、土地収用法に基づく事業認定の申請手続きに入ると表明した。県は翌月、国に申請。土地の強制収用への道を開いた“起点だった”。
1982年の強制測量から約27年が経過し、地道な用地交渉の末、地権者の8割が移転していたが、なお13世帯が応じていない中での申請。なぜ、このタイミングだったのか-。
2009年夏、政界で波乱が起きた。衆院選で民主党(当時)が大勝し、政権交代。自民党出身の金子は同年11月、「県政運営に支障が生じないように」として、翌年2月の知事選への4選不出馬を表明する。事業認定申請宣言は、不出馬表明の1カ月前だった。
「(転居など事業に)協力してくれた人たちのことを考え、自分が知事の時代に(事業認定申請を)やらんばいかん。皆さんを説得したのに申請もしないで辞めたんでは無責任だと思った」。金子は当時をこう振り返る。「コンクリートから人へ」を掲げ、民主党政権が公共事業の再検証を進める中、「(申請で)後の人に引き継いでもらいたいという気持ちもあった」という。
当時、県議会でも事業認定申請を求める議員が大勢だった。09年6月定例県議会では超党派の33人が意見書を提出。強制測量への反省を県に求めながらも、「事業認定は中立の認定庁(国土交通省九州地方整備局)が事業の必要性、公益性を審査するため、話し合いを進展させることが期待できる」という内容だった。
一方、申請に反対する県議もいた。元県議の吉村庄二は当時、土木部を所管する環境生活委員会に所属。事業認定は行政代執行への道を開くと訴えていた。国は自民党が政権奪還後の13年9月、事業認定を告示する。吉村は「認定庁は(事業の)第三者とはいえ国の機関。申請すれば当然(ダムが)必要という話になることは初めから分かっていた」と無念さをにじませる。
反対住民と「話し合いを進めるため」などとして、事業認定申請に踏み切った県。だが、県の狙いとは裏腹に、反対13世帯が翻意することはなく、申請から10年の歳月を経て行政代執行という最悪のシナリオが現実味を帯びる。
=文中敬称略=


混迷 石木ダム 用地収用・4 <分断> 意志が弱かったのか…

(長崎新聞2019/9/24 10:20) https://this.kiji.is/549039417644876897?c=39546741839462401

(写真)建設予定地から移転した川崎さん夫妻は、複雑な思いでダム問題の行く末を見つめている=川棚町中組郷

長崎県と佐世保市が東彼川棚町に計画する石木ダムの建設予定地。今月、土地収用法で所有権を失った後も、反対住民13世帯が住み続けている。一方で家屋移転対象の約8割に当たる54世帯は補償契約に応じ、これまでに集落を後にした。
彼らの意志が強いのか、それとも、私の意志が弱かったのか-。“闘い”を続ける川原(こうばる)地区の13世帯を前に、元住民の川崎民雄(89)は、そんな思いに駆られる。水没予定地の同地区で生まれ育ち、かつては13世帯と同じ「絶対反対同盟」の一員だったが、2003年9月に4キロほど下流の新居に移り住んだ。
妻の幸枝(85)も川原の生まれで、先祖代々受け継いだ土地に思い入れもあった。だが代替宅地が造成され、住民の移転が進むにつれ、「どんなに頑張ってもダム計画は止められない」と考えるようになった。高齢のために川原で農業を続ける自信もなかった。「苦しかった。でも将来を考えると、自分には残れない」。苦渋の決断だった。
新聞にダムの話題が載れば必ず目を通し、妻に読んで聞かせる。先行き不透明なダム事業に「何のために移転したのか」と割り切れない半面、「13世帯の結束は固い。ダムはもう無理なんじゃないか」とも思う。
ダム計画が持ち上がってから、静かな集落は翻弄(ほんろう)され続けた。国の事業採択(1975年)をきっかけに川原や岩屋両地区などを中心に反対団体がつくられたが、県側の説得で切り崩され、分裂。県の強制測量(82年)では、容認派と反対派の対立が先鋭化し、親族内で慶弔の行き来を絶ったり、集落が機能不全に陥ったりと深刻な分断を生んだ。
94年に生活再建や地域振興を目指す住民が「石木ダム対策協議会」を結成し、県との積極的な補償交渉に乗り出した。初代会長で、岩屋地区から代替宅地に移った田村久二(85)は「反対同盟との折り合いがつきそうにもない中で、今より地域をよくしたいとの思いだった」と語る。
反対同盟からも突然10世帯近くが移転し、残る13世帯にも動揺が走った。13世帯の一人、岩下すみ子(70)は「前日まで普通にしゃべっていた仲間が急にいなくなった。ショックやったよ」と振り返る。「でも事情はそれぞれにあるし、私たちもその人たちの未来にまで責任は取れない。結局止め切らんかった…」。残った者と去った者。それぞれが葛藤と傷を抱え、出口の見えない古里の行く末を見つめている。=文中敬称略=


混迷 石木ダム 用地収用・5 <水需要予測> 過大か適正か議論平行線

(長崎新聞2019/9/25 12:50) https://this.kiji.is/549439180293948513?c=39546741839462401

(写真)石木ダム反対のチラシを配り、理解を求める市民ら=19日、佐世保市島瀬町

8日、佐世保市内。県と同市が東彼川棚町に計画する石木ダム建設事業を巡り、反対13世帯の宅地を含む土地の強制収用に反対する市民集会が開かれた。会場には定員を大きく超える約130人。立ち見が出るなど熱気が漂った。
「私たちは水に不自由してない。人口減少で水需要は減り続ける。なぜダムを造る必要があるの」。主催した市民団体「石木川まもり隊」代表の松本美智恵(67)のあいさつに拍手が湧き起こった。
同ダム建設の目的の一つが同市の利水だ。市は2012~24年度の水需要予測を踏まえ、同ダム建設で新たに日量4万トンを確保する必要があるとする。一方、国立社会保障・人口問題研究所は同市の人口は現在の約25万人から40年には19万人にまで減ると推測。松本は「市の水需要予測は過大。人口減少の現実を受け止め、ダムに巨額の税金を投じるのではなく、既存施設を補修して漏水対策を急ぐべきだ」と訴える。
こうした「過大」との指摘に対し、市は「必要最低限の予測値だ」と反論。24年度までの人口減少は考慮しているとし、「都市の将来像が見えない中でさらに先の予測はできない。精度も落ちる」と譲らない。
ダムの必要性を巡っては、市長の朝長則男もかたくなな姿勢を崩さない。6月定例市議会でも「市民生活を守り、市政を発展させていく上で必要不可欠だ」と強調。過去に度々渇水に見舞われ、1994年には約9カ月の給水制限に至った苦い経験や、水を消費する企業を誘致できないもどかしさがにじんだ。
「心配はそれだけではない」。そう話すのは市議会石木ダム建設促進特別委委員長の長野孝道だ。朝長はクルーズ客船やカジノを含む統合型リゾート施設(IR)誘致を重要政策に掲げており、観光客増加を見据え十分な水源を確保しておきたい思いもあると長野はみる。
ただ、近年を見ると、実際に水を使った実績値は水需要予測値を下回って推移。2018年度の1日平均給水量は予測値の約82%にとどまり、ダム反対市民らは「予測の再検証が必要だ」と訴える。一方、市水道局は、予測値には気象条件でピークが重なる状況や事故災害による非常事態も加味しており、「通常は実数値を下回る」と意に介さない。
石木ダム建設予定地の一部の明け渡し期限ともなった19日、反対市民らは市中心部のアーケードでチラシを配り、通行人に理解を求めた。それを受け取る人もいれば、拒む人もいる。将来の水需要は減るのか、増えるのか-。議論はかみ合わないまま平行線をたどっている。=文中敬称略=

私たちもその人たちの未来にまで責任は取れない。結局止め切らんかった…」。残った者と去った者。それぞれが葛藤と傷を抱え、出口の見えない古里の行く末を見つめている。=文中敬称略=


混迷 石木ダム 用地収用・6完 <県民の視線> 賛否の議論 盛り上がらず

(長崎新聞2019/9/26 10:22)updated https://this.kiji.is/549763649060324449?c=39546741839462401

(写真)強制収用や行政代執行に反対する議員連盟の設立会見で話す城後代表(中央)=県庁

「広く市民に訴える連盟をつくり、動きを展開したい」。今月14日、県庁。県と佐世保市が東彼川棚町に計画する石木ダム建設事業を巡り、土地の強制収用に反対する国会議員、地方議員73人で立ち上げた議員連盟の設立会見で、代表の城後光=東彼波佐見町議=は言葉に力を込めた。
同事業を巡っては昨年、音楽家の坂本龍一がダム問題の啓発に取り組む市民団体に招かれ建設予定地の川原(こうばる)地区を訪問。反対住民とも対話し、長崎市内であったトークセッションでは「ダムの必要性が今もあるのか。一度決めたことを変えない公共事業の典型例と感じる」と疑問を呈した。歌手の加藤登紀子も昨年、同地区に足を運び、報道陣に「多くの人にこの地を訪ねてほしい」と語った。映画監督の山田英治は同地区の人々の暮らしを描いたドキュメンタリー映画「ほたるの川のまもりびと」を制作し、全国各地で上映されている。
県収用委員会が同地区13世帯の宅地を含む全ての未買収地約12万平方メートルの明け渡しを求める裁決を出した今年5月以降は、反対運動が活発化。県に公開討論を求める署名約5万筆が全国から集まり、強制収用に反対する県民ネットワークも発足した。
だが、こうした一部の動きとは裏腹に、一般県民の間にダム推進、反対の議論が盛り上がっているとは言えず、その視線の行方は不明瞭だ。4月の県議選や7月の参院選で石木ダム問題は争点にならなかった。4月の川棚町議選には反対13世帯の一人、炭谷猛が初出馬し、ダム反対を掲げてトップ当選したものの、県は「町議会の構成が大きく変わったと認識していない」との受け止め方だ。
今月7日、買い物客でにぎわう長崎市中心部。約150人がダム反対を訴えデモ行進したが、多くの県民は関心を示さず、立ち止まる人はほとんどいない。「ダムはいらんやろ」とつぶやく男性がいる一方、「うるさいだけ」と吐き捨てるように素通りする女性の姿もあった。
県民ネットワークの発足に関わった同市在住のライター、松井亜芸子(42)はダムを巡る運動を「(国の)未来を考える能動的な活動」と位置付ける。のどかな集落を舞台に約半世紀にわたり混迷を続けるこの問題は、県民に何を問い掛けているのか。松井は言う。「(反対13世帯の)住民の言葉は、(私たちが)自分の町や自分自身を考えるきっかけを与えてくれる。(川原地区の問題に矮小(わいしょう)化せず)石木ダムから国全体の在り方を考えてほしい」
=文中敬称略=
=おわり=

 

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