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(現場へ!)岐路に立つ長崎・石木ダム:新聞の連載1~5

2020年4月14日
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石木ダム問題についての新聞の連載記事「(現場へ!)岐路に立つ長崎・石木ダム」の15を掲載します。力作の連載記事です。

 

(現場へ!)岐路に立つ長崎・石木ダム:1 住民の闘い60年、問いかける
(朝日新聞2020年4月6日 16時30分) https://digital.asahi.com/articles/DA3S14431993.html?iref=pc_ss_date

(写真)水没する県道の付け替え道路工事が進む中、行き来する工事車両の近くで住民たちの座り込みが続いている

(写真)ダム建設反対を訴える「見ざる 言わざる 聞かざる」のやぐら=いずれも長崎県川棚町•
(写真)石木ダム建設予定地の川原集落(手前)。奥は川棚川が注ぐ大村湾=本社ヘリから


長崎県川棚(かわたな)町は、長崎空港から大村湾沿いに車で30分ほど北上した位置にある。川棚川河口部のにぎやかな中心部を経て、上流方向にさらに7~8分走ると、のどかな田園風景の中に巨大な看板群が目に飛び込んでくる。
「石木(いしき)ダム建設絶対反対」
「水の底より 今の故郷」
この地にダム計画が持ち上がったのは1962年のことだ。その後多くの住民が故郷を去ったが、川原(こうばる)集落には今も13世帯、五十数人が立ち退きを拒んで暮らす。米や野菜を作り、山菜を採り、時にイノシシを狩る。30~50代は町内外に職を得ながら農業もする。
石木ダム事業は、川棚川の支流の石木川を、高さ55・4メートル、幅234メートルのコンクリート製の堰堤(えんてい)でせき止め、総貯水量548万トンのダムを築く計画だ。隣の佐世保市への水道水供給と、町を洪水から守るために本流の水量を調節する治水を目的とする。佐世保への導水事業なども含め、最新の見積もりで総額600億円を超す。

13世帯の粘りにしびれを切らした県は昨年、土地収用法に基づく行政代執行の権限を得た。土地の所有権はすでに住民から国に移され、知事の判断一つで強制的に家屋撤去に踏み切れる段階にある。国土交通省によると、ダム建設をめぐる現住家屋の撤去は前例がなく、もし強行すれば、国内のダム事業で初めてのケースとなる。
集落で目を引くのが「見ざる 言わざる 聞かざる」のシンボル塔だ。「三猿」の顔を描いた看板が、杉丸太を組んだ高さ約8メートルのやぐらに掲げてある。
県は72年、地元の了解なしでダムは造らないという覚書を、川原を含む3集落と交わした上で予備調査を始めた。だが建設が可能と判断すると、県は約束をほごにして手続きを進め、75年に旧建設省の認可を得て事業に着手した。
そうした流れに抗(あらが)うため、74~75年に3集落では「石木ダム建設絶対反対同盟」を旗揚げした。
県職員や町の幹部らは住民を切り崩そうと戸別訪問を仕掛けたが、断固拒否の姿勢を示そうと78年、当時の青年たちが電柱を利用して建てたのが「三猿」のやぐらだった。

その一方で、同盟の役員を務めていた父親世代は若手の強硬姿勢を煙たがり始める。軍隊時代の先輩だった町長から酒食のもてなしを受けて懐柔されていたのだ。
家々では青年たちが決起して父親から世帯主の座を奪い、集落の集まりに出るようになった。80年3月には同盟を解散し、酒食になびかない女性や子どもを会員に加えて4日後、再結成した。
中心メンバーの石丸勇(いさむ)(70)は「戦後の民主教育を受けた世代が、父親の世代を乗り越え、闘いの土台を築いた」と振り返る。
「13世帯に示した補償金は計約12億円。住民はそれを蹴った。信じられない」。ある県職員が記者にこうつぶやいたことがある。
総貯水量でみれば、国内最大級の徳山ダム(岐阜県)の120分の1にすぎない。だが、「金銭に代えられないものの価値」を、改めて社会に問いかける大きな存在になりつつある。
60年近く前の計画が推し進められようとしているいま、住民の闘いの意味を改めて考えたい。=敬称略(原口晋也)

現場へ!)岐路に立つ長崎・石木ダム:2 命の土地、2度も収奪ならぬ
(朝日新聞2020年4月7日 16時30分)https://digital.asahi.com/articles/DA3S14433431.html?iref=pc_ss_date

(写真)トタンぶきの「ダム小屋」に杖をつきながら通う(左から)松本マツと岩永サカエ=長崎県川棚町
(写真)水没予定地の川原集落に住む石丸勇 (写真)岩本宏之 (写真)厳しい表情で県職員と向き合う炭谷猛=長崎県庁

長崎県川棚(かわたな)町を流れる石木(いしき)川は、せせらぎという表現がふさわしい小さな流れだ。暖冬で初鳴きが早かったウグイスの声と、重機の音が低い山々にこだまする。
流れを見下ろす高台では連日、川原(こうばる)集落の住民や支援者20~30人が石木ダム建設に抗議する座り込みを続けている。

2010年3月、ダム建設で水没する県道の付け替え道路着工を機に始まった。数度の工事中断を経て16年7月からいまも続く座り込みは3月9日、土日などを除き連続800日に達した。
現役世代は仕事に出るため60~70代が中心。35度前後の炎天下でも、雪が舞う中でも休まない。通院や畑仕事は合間にこなす日々だ。他方、県は迂回(うかい)路を造って工事を進めている。
初雪の日は近くで切り出した木をくべて暖をとり、イノシシの肉を焼いて食べた。その姿を、県職員が遠巻きに監視していた。
昨年10月5日、川原集落に住む石丸次儀(つぎよし)(享年90)の葬儀があった。喪主あいさつで長男の勇(いさむ)(70)は父親の少年時代に触れた。
「長崎原爆の時、大きな音がしたと言っていた。当時は石木の防空壕(ごう)で働いていました」
川棚町は長崎県の中央部に位置する大村湾の北岸にあり、戦時中は魚雷工場だった川棚海軍工廠(こうしょう)が置かれた。敗戦前年の春、工場群は空襲を恐れて川原などの山あいに移転疎開したため、田畑がつぶされた。次儀の実家も接収で上流に移転を強いられ、自身は地下壕に築かれた工場で働いた。
戦時中の国家総動員体制下とはいえ、住民からすれば土地の収奪に他ならない。葬儀に参列した岩本宏之(75)は「土地は命。2度も取られるわけにはいかん」と吐き捨てるように言った。ダム建設に対する抵抗の背景には、敗戦でなんとか取り戻せた伝来の土地を、自分の代で失うわけにはいかないという強い思いがある。

集落の総代、炭谷猛(すみやたけし)(69)の田んぼわきのコンクリート壁には「石木ダム建設絶対反対」の看板が掛かる。壁は魚雷工場の遺構で、高さ4メートル弱、長さ約150メートルの壁のあちこちに鉄骨が突き出ている。炭谷は戦後、祖父や父親が工場の分厚いコンクリートの床をつるはしで砕き、外壁を壊し、鉄骨を抜いていた姿を覚えている。
小6の頃にはダム計画が浮上した。敗戦で戻ってきた土地に水を引いて田んぼに戻した頃には30歳を過ぎていたが、県は機動隊を導入して強制測量を断行。1982年5月、31歳の春だった。
それから37年後の昨年9月、土地収用法に基づき、ダム予定地の所有権はすべて国に移った。11月の明け渡し期限後も住民は住み続けているが、県は代執行による家屋の取り壊しをちらつかせる。
ダム本体が築かれる堤の右岸にあるトタンぶきの監視小屋には、松本マツ(93)と岩永サカエ(80)が通う。対岸で座り込む若手に負けまいと気負うが、工事の様子を眺めることしかできない。
「ブルドーザーが来(こ)らして山が崩されるのを見るのはつらか。国に2度も土地を取られるとは、どこで目をつけられたもんか」
かつて女子挺身(ていしん)隊として魚雷工場で働いた松本が見やる窓の向こうでは、重機が動いていた。
=敬称略(原口晋也)

現場へ!)岐路に立つ長崎・石木ダム:3 強制測量とカネ、分断を生む
(朝日新聞2020年4月8日 16時30分) https://digital.asahi.com/articles/DA3S14434939.html?iref=pc_ss_date

(写真)一人で座り込みを続ける岩下すみ子=長崎県川棚町
(写真)水没予定地の集落を離れたが、いまも荒れた道の先にある畑に通う男性=長崎県川棚町
(写真)中村法道・長崎県知事
国が石木(いしき)ダム(長崎県川棚〈かわたな〉町)の全体計画を認可した1975年から45年。まだ本体着工にさえ入れずにいる最大の原因が、長崎県による強制測量だ。
1982年5月21日、静かな里山が悲鳴と怒号に包まれた。川原(こうばる)集落と上流の木場集落を中心とした約250人と、機動隊140人が衝突したのだ。「ダムの必要性から議論したい」とする住民側に対し、県は「測量調査に同意を!」と譲らず、しびれを切らした県がダム予定地に機動隊を導入、調査を強行した。

当時の8ミリフィルムを見た。巨漢の隊員が住民を抱えてゴボウ抜きにすると、住民がすぐ後ろに戻って座り込む。小中学生37人も「帰れ」と声を上げるが、抱えられ、大泣きしながら排除される――。そんな光景が延べ7日間続いた。これが決定的な亀裂を生み、知事の高田勇(たかだいさむ)(故人)はその後12年間、反対住民と会うことすらできなかった。他方、圧力と執拗(しつよう)な切り崩しによって、対象となる3集落67世帯のうち、川原集落の13世帯を除く8割の住民が2005年度までに故郷を離れた。
72年着手の予備調査から4代目の知事・中村法道(ほうどう)(69)は全未買収地を収用する前日の昨年9月19日、13世帯と面会後、「用地を提供した(8割の)方の思いも大切に事業を進める」と宣言した。
移転を受け入れた二つの住民団体に対し、県から助成金200万円と90万円が毎年支払われていたことを示す資料を、記者は入手した。ダムを巡る攻防が激しかった90年代半ばには「会議等連絡費(食糧費)」として団体の懇親会などに年500万~1千万円が充てられたことを示す記録もある。
最大の推進派団体の会長だった田村久二(ひさじ)(82)は「推進派の会を作ってくれと県に頼まれ、乗り気でない仲間を説得した」と明かす。毎年各地のダムを視察し、助成金を充てた。記者が入手した資料を、県の石木ダム建設事務所に示すと、「ダム完成後の周辺整備の参考にしてもらうのが目的」と説明したが、「視察の後は観光旅行だった」と語る元会員もいる。

多い頃は月に数回あったという懇親会はタクシーの送迎つき。総会では県土木部の幹部が「お世話になります」と頭を下げた。「県は我々に『ダム賛成』と発信してほしかとです」と田村はいう。
土地を手放した元住民の男性(72)は、子ども3人を県内外の大学に進学させ、補償金に助けられたという。「ダムができなければ先祖も浮かばれん。かといって反対住民を力で追い出すなんてしてほしくない。話し合いが筋」
一方、抵抗を続ける川原集落の女性陣のリーダー格、岩下すみ子(71)は嫁いだ頃、街灯もまばらな集落に心細さを感じた。だが10年後の強制測量の時、登校を求める教育委員会にはこう返した。
「息子にとって一生のうちのほんのわずかな時間。故郷を守る闘いは、いい経験になるけん、一緒に闘います」
そんな岩下が心の傷として語るのが、強制測量にも一緒に抗(あらが)って仲のよかった隣家が突然姿を消したことだ。「彼女は女手一つで娘たちを育てていた。離村を明かせなかった気持ちも分かる。でも、裏切られた思いが消えんとです」=敬称略(原口晋也)


(現場へ!)岐路に立つ長崎・石木ダム:4 「266年、世代つなげ私がいる」

(朝日新聞2020年4月9日 16時30分) https://digital.asahi.com/articles/DA3S14436226.html?iref=pc_ss_date

(写真)監視小屋の女性たち。機動隊とも闘ったこの7人は鬼籍に入った。いまは1~2回り下の女性2人が詰めている=1998年9月11日、長崎県川棚町、大西暢夫さん撮影
 (写真)土地を売った住民は我が家を壊して出て行き、ダム反対派住民は無言で見守った=2001年3月3日、長崎県川棚町、大西暢夫さん撮影
 (写真)水没予定地の川原集落の総代、炭谷猛 (写真)写真家の大西暢夫(右)は全国のダム水没集落の思いを伝えてきた=3月11日、岐阜県揖斐川町
長崎県川棚(かわたな)町の町立石木(いしき)小学校から、猫の耳の形に似た虚空蔵山(こくうぞうざん)が望める。校庭にはノーベル物理学賞の朝永振一郎ら英才が続いた朝永一族をたたえる碑がある。石木ダム建設予定地ではこの霊峰を仰ぎ、一族を誇りにしてきた。
水没する川原(こうばる)集落の総代、炭谷猛(すみやたけし)(69)は昨春、水没予定地の住民として初めて町議選に立ち、トップ当選した。直後の議会の一般質問で、こう切り出した。
「我が家の仏壇には宝暦3(1753)年3月29日に没した先祖から累代の位牌(いはい)がある。266年間、世代をつなげて、今の私がいます」

土地収用法に基づき、住民の土地所有権が国に移される前日の昨年9月19日。立ち退きを拒む川原集落の13世帯、約50人が長崎県知事、中村法道(ほうどう)(69)と面会した。
4世代家族そろって参加したのは、県立川棚高2年(当時)の松本晏奈(はるな)。「ひいばあちゃんと畑で野菜を作り、食べ、田植えをしてきた。帰る場所がなくなるなんて、考えたくありません」と、声を詰まらせながら訴えた。
曽祖母マツ(93)は戦時中、旧海軍が田畑を接収して建てた魚雷工場で働いた。父の好央(よしお)(45)は小学2年の時、ダム建設を急ぐ県が導入した機動隊と対峙(たいじ)した。一家は世代をまたぎ、今も土地の収奪と向き合い続けている。
この間、「援軍」も増えた。13世帯が帰依する福浄(ふくじょう)寺住職、深草昭寿(あきひさ)(67)もその一人。政治問題を嫌う門徒の反対を押し切って支援してきた。13世帯には寺が経営する幼稚園の卒園生が多くいる。
「機動隊に涙を流して立ち向かう好央君らを見捨てられなかった。仏の教えにかなう道だと信じている」。深草はそう語る。

写真家の大西暢夫(のぶお)(51)は1998年、全国のダムを巡る旅の最後に石木ダム予定地を訪れた。建設反対の看板群や監視小屋の意気高いおばちゃん……。「敗戦」の気配が濃い他のダム予定地と違い、30年以上続く闘いに衰えの気配がないのが印象的だった。
住民は計画発表時は反対するが、隣人の胸中を察して大勢につき、山を下りることが多い。反対し続けるのは市民団体と相場が決まっていたという。「地権者が反対し続ける石木ダムは将来、大問題になる」。そう予感した。
2006年、報道写真誌が大西の石木ダムの写真やルポを中心に特集を組んだ。副題は「闘いを継ぐ人々」。水没した村々の無念を託された人々という意味だ。
大西がダム問題に目覚めるきっかけとなった、地元岐阜県の徳山ダムを3月、一緒に訪ねた。旧徳山村を全村水没させて14年前に現れたダム湖は、国内最大の総貯水量6億6千万トンを誇る。石木ダム完成時の120倍だ。
水没した8集落の一つ、山手の望郷の碑にはこうあった。〈朝は……分校に通う子どもや山仕事に向かう村人が明るく声をかけ合う……春には残雪の谷にウドを探し、夏は鮎(あゆ)を追う。秋には薪(まき)を取り、長い冬は囲炉裏で栃餅(とちもち)を焼き、雪と過ごす……ふるさと山手はこの湖の底にある〉
運転席の大西がいった。
「千年単位で続いてきた暮らしや、笑顔を、人類史からすれば一瞬の判断で、永遠に水に沈めてしまった」
=敬称略(原口晋也)

(現場へ!)岐路に立つ長崎・石木ダム:5 みんなが「勝つ」方法、考えよう
(朝日新聞2020年4月10日 16時30分) https://digital.asahi.com/articles/DA3S14437585.html?iref=pc_ss_date
(写真)『石木』を転換できれば、日本にも光明がある」と語る、いとうせいこう=東京都千代田区
(写真)「石木ダムに反対する住民はぼくらと変わらないふつうの人たちだと知ってほしい」と語る映画監督の山田英治=東京都目黒区
(写真)パタゴニアの前日本支社長、辻井隆行。石木ダム予定地に幾度も足を運び、住民を支援する=東京都品川区
長崎県川棚(かわたな)町に計画されている石木(いしき)ダムで水没する川原(こうばる)集落の公民館の内壁には祠(ほこら)があり、聖徳太子の像がまつられている。
作家のいとうせいこう(59)はダム現地を見たいと2015年秋に訪れ、太子堂を見て驚いた。仏像好きのいとうも、仏教興隆に尽くした太子の信仰がこんな形で続く場所を他に知らないという。
年配の住民は親鸞のお経・正信偈(しょうしんげ)をそらんじ、通夜を自ら仕切ることもある。いとうは思う。
「代々、土地の文化を受け継ぎ、誇りをもって生きてきた、まさに日本人。その倫理でダムに反対している。彼らを“切る”ことは『日本人』を“切る”こと」
石木ダムは川棚町の隣、佐世保市への水道水供給が目的の一つ。市は市内の米海軍や海・陸の自衛隊、ハウステンボス、造船所など大口需要のピークの重複に応えるにはダムが不可欠と主張する。

もう一つの目的は洪水防止。県は、最下流の支流、石木川をせき止めて本流の流量を調節し、河口にある町中心部を洪水から守るという。だが川原の住民は、人口減なのに上向く水需要予測や小さな支流のダムの防災効果を疑う。
60年前の計画が続く現状を憂えるいとうはいう。「国土強靱(きょうじん)化をいうなら、新たな知見を取り入れながら計画を練り直す柔軟性こそ強靱化。利水面でも、水道管の漏水率を低める事業が、あり得べき公共事業じゃないか」
そしてこうも語る。
「戦後日本が抱える、ある種のでたらめさが、石木ではよく見えます。水俣・成田(空港)・福島・石木。石木を転換できれば、日本にもまだ光明がある」
博報堂で東京電力などのCMを手がけてきた映画監督の山田英治(50)は震災後、両親の故郷・福島の惨状を見て「結果的に、原発事故に加担した」と自分を責めた。15年春には石木ダム予定地を訪れ、そこに福島の姿を重ねた。そして長年のダム闘争でも失われていない住民の笑顔とユーモアに接して心が震え、「『ダム反対』映画ではなく『里山の豊かな暮らし賛成』映画なら撮れる」と思った。それが、住民の日常を描いた18年公開の「ほたるの川のまもりびと」だ。

いとうと山田を、現地にいざなったのが米アウトドア衣料メーカー・パタゴニア日本支社の前支社長、辻井隆行(51)。15年1月に現地を訪れ「ダムを壊していくのが世界の流れ。住民を追い出すなんて21世紀の話か」と憤った。
だが考えが少し変わった。事業を進める役所には彼らなりの理屈がある。現在進むダム周辺工事を受注した建設業者にも非はない。
「勝ち負けでなくて、みんなが『勝つ』方法を考えたい。ダム本体の工事は県外の大手ゼネコンが手がけることになるが、例えば河川改修中心に治水対策を転換すれば地元で受注でき、住民も住み続けられる可能性が広がる。そんな持続可能な開発目標(SDGs)の理念にかなう、誰ひとり取り残さない方策を、皆で考えたい」
昨夏、公開討論を求めて約5万筆の署名を長崎県に提出した。
辻井には確信がある。石木ダムのあり方を問うことは、民主主義を問い直すことだ、と。
=敬称略(おわり)
(原口晋也)

 

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