各地ダムの情報
石木ダム全用地収用採決 迫る知事判断 地権者引かず 追い詰められたのは県
長崎県収用委員会が反対地権者13世帯の宅地を含む未買収地計約12万㎡について、土地を明け渡すように地権者に求める裁決を出しました。
収用裁決申請の第二次3万㎡と第三次9万㎡を合わせた裁決です。
長崎県はこの裁決を公式に発表せず、一部のマスコミにリークしました。県への風当たりを小さくするためのリークであって、この長崎県のやり方はあまりにも姑息であり、卑怯です。
長崎新聞は「裁決で、真に追い詰められたのは「古里に住み続けたい」と訴える反対住民というより、むしろ県側に思える」と書いています。
長崎新聞5月24日の記事には明け渡し期限が建物がない土地が9月19日、建物がある土地が11月18日と書かれています。
期限が来れば、県が補償金を法務局に供託し、所有権が国に移転されることも予想されますので、頑張らなければなりません。
石木ダム全用地収用採決 追い詰められたのは県
(長崎新聞2019/5/23 11:04)updatedhttps://this.kiji.is/504114297260557409
県収用委員会の裁決で、県は石木ダムの実現に必要な未買収地の全てを、地権者の意思にかかわらず収用することが可能になった。国の事業採択(1975年)から40年以上がたつが、人口減少による水需要の低下や大型公共事業への疑問を背景に、反対派の疑念はむしろ深まっている。
水没予定地の東彼川棚町川原地区では高齢者や子どもを含む13世帯約60人が暮らしている。県と佐世保市はダムの必要性や土地収用法に基づいた手続きの正当性を強調するが、事業を巡っては、県が82年に機動隊を使って住民らを排除しながら強制測量に踏み切った経緯もある。住民側の頑強な反対運動は、この時の怒りと不信感によるところが大きい。
県側は「(建設予定地の地権者の)8割以上の協力を得た」と繰り返す。だが、そもそも理解を得られなかった「2割」は、強権的な手段もやむを得ないとするほど過小評価していいものなのか。4月の川棚町議選で反対地権者の候補が、最多得票で当選したのも、強引な進め方に疑問を感じる地元の声の表れともいえる。
建設予定地に暮らす反対地権者らが立ち退かない限り、ダムの完成は不可能。このまま理解が得られなければ、実力行使で家屋を撤去し、住民を排除する行政代執行に踏み切るしかないが、そうなれば県政史上類を見ない“汚点”になるとの批判は免れない。裁決で、真に追い詰められたのは「古里に住み続けたい」と訴える反対住民というより、むしろ県側に思える。
石木ダム全用地収用採決 迫る知事判断 地権者引かず
(長崎新聞2019/5/23 10:55) https://this.kiji.is/504112772873241697
今回の裁決で、石木ダム建設事業は大きな局面を迎えた。土地収用法では、明け渡し期限までに地権者が応じなければ、起業者(石木ダムの場合は県と佐世保市)は知事に行政代執行の請求が可能。請求を踏まえ、知事が対応を判断することになる。県は「まずは円満に協力いただきたい」と強調するが、地権者は一歩も引かない構えだ。
付け替え県道迂回(うかい)路部の用地(約5500平方メートル)は2015年6月に裁決が出て、同8月までに収用されたが、現在も地権者による耕作が続いている。県河川課は「工事の工程上、今すぐ(立ち退かせるなどの)代執行をする必要はない」として説得に当たっている。
一方、今回裁決が出たダム本体(約3万平方メートル)と貯水池(約9万平方メートル)の用地は家屋13世帯を含むため、交渉はさらに難航必至だ。県が掲げるダムの完成目標年度は22年度。このまま住民が住み続ければ、中村法道知事はいずれ行政代執行の判断を迫られることになる。
県用地課によると、1998年度から昨年度までに県の事業計81件について、県収用委員会に裁決申請したが、このうち行政代執行に至ったのは2例だけ。1例は立木の伐採で、もう1例は07年、佐世保市内の県道を整備する際に住居1世帯を立ち退かせたという。いずれにせよ、石木ダムで行政代執行されれば、県にとって前例のない規模となる。
ダム反対運動に詳しい呉工業高等専門学校(広島県)の木原滋哉教授は「(実際に行政代執行をすれば)聞いたことがない規模。居住者がいていろいろな意見がある中で代執行をすれば反発を招くだけだ」と懸念を示した。
石木ダムの強制収用の裁決に地権者からは怒りの声
(テレビ長崎2019年5月23日 12:13) http://www.ktn.co.jp/news/20190523247211/
東彼・川棚町の石木ダム建設をめぐり、県の収用委員会が建設に反対する地権者が暮らす土地や家屋の強制収用を認める裁決を21日出しました。
地権者側は強く反発し抗議の座り込みを続けています。
川棚町の石木ダム建設予定地では23日朝もダム建設に反対する抗議の座り込みが行われました。
石木ダム建設予定地の地権者「腹が立ちますね。ダムをつくるには行政代執行するしかないのに、収用委員会の裁決で苦しめてこの苦しみは長年、続いている」
県と佐世保市は佐世保市の水不足解消などのため石木ダムの建設工事を進めています。
しかし建設に反対する地権者の理解は得られておらず、県からの申請を受けた収用委員会は、21日、土地の強制収用を可能にする「裁決」を行いました。
収用される土地には家屋が建つ場所も含まれていて、明け渡し期限は建物がない土地は2019年9月、建物がある土地は11月だということです。
収用委員会は5月中に裁決書を発送し6月初旬には地権者の手元に届く予定だということです。
石木ダム全用地収用裁決 反対地権者宅地も 明け渡し求める 長崎県委員会
(長崎新聞2019/5/23 11:30 )https://this.kiji.is/504116677071504481?c=174761113988793844
長崎県と佐世保市が東彼川棚町に計画する石木ダム建設事業で、反対地権者13世帯の宅地を含む未買収地計約12万平方メートルについて、県収用委員会(梶村龍太会長)が、土地を明け渡すように地権者に求める裁決を出したことが22日、分かった。ダム建設に必要な全ての用地を強制的に収用することが可能になった。地権者側は反発を強めている。
県は土地収用法に基づき、地権者の同意が得られないなどの理由で買収できなかった用地計約12万6千平方メートルについて、2014~16年に3回に分けて、県収用委に明け渡し裁決を申請。最初に申請した農地計約5500平方メートルは既に明け渡し裁決され、15年8月までに収用されたが、事実上地権者らが占有している。
今回新たに裁決されたのは、15年7月と16年5月にそれぞれ申請した計約12万平方メートルで、計画ではダム本体や貯水池などになる。13世帯が現住する宅地や公民館などの共有地を含む。
関係者によると21日に長崎市内で収用委があり、裁決した。17年8月までに複数回開いた審理に反対地権者の出席はなく、県の立ち入り調査も拒否されていた。
建設予定地では現在、ダムに水没する県道の付け替え道路の工事が進むが、反対地権者が連日現場で抗議運動を続けている。県の本年度当初予算案には本体工事費が初めて盛り込まれた。中村法道知事は取材に「(収用委の)結果を知らず、コメントできない」と前置きしつつ、「(反対地権者の)理解を得る努力は継続して重ねていく」とした。
事業を巡っては、反対地権者らが国に事業認定取り消しを求めた訴訟が福岡高裁で係争中。一審長崎地裁判決はダムの必要性を認め、原告の訴えを退けた。他に反対地権者らが県と佐世保市に工事差し止めを求めた訴訟も長崎地裁佐世保支部で争っている。
(写真)県と佐世保市が計画する石木ダムの建設予定地。県道付け替え道路の工事が進む=川棚町
石木ダム用地 収用裁決 「本当の闘いはこれから」反対地権者ら抗議続行
(長崎新聞2019/5/24 10:00) https://this.kiji.is/504459558680167521?c=174761113988793844
(写真)県道付け替え道路の工事現場で座り込みを続ける地権者ら=川棚町
長崎県と佐世保市が東彼川棚町に計画する石木ダム建設事業を巡り、反対地権者13世帯の宅地を含む土地の明け渡しを求める県収用委員会の裁決が明らかになって一夜明けた23日、反対地権者ら約30人は長崎県が進める付け替え道路工事現場での抗議の座り込みを続けた。
反対地権者らは2017年夏から作業道に座り込むなどして抗議。裁決の報道を受け、同日は激励に訪れる支援者の姿も見られた。地権者の岩下秀男さん(71)は「裁決が出ても、こちらは何の変わりもない。行政代執行までやるつもりなのか。本当の闘いはこれから」と唇を結んだ。
県収用委は21日、地権者の宅地を含む未買収地計約12万平方メートルの明け渡しを裁決。ダム建設に必要な全ての用地を強制的に収用することが可能になった。関係者によると、明け渡し期限は建物がない土地が9月19日、建物がある土地が11月18日。期限までに明け渡しに応じなければ、家屋の取り壊しや住民の排除などの行政代執行が可能になる。裁決書は5月末に地権者に発送される予定。
石木ダム全用地取得へ 長崎県、強制収用可能に
(西日本新聞2019/5/23 6:00) https://www.nishinippon.co.jp/item/n/512370/
長崎県と同県佐世保市が進める石木ダム(同県川棚町)建設事業の予定地について、県収用委員会が21日付で反対地権者に土地の明け渡しを命じる裁決を出したことが分かった。土地収用法に基づき、事業主体の県による強制収用が可能となる。明け渡し期限や補償額を記した裁決書は、近く地権者らに通知される。
1975年に国から事業採択された石木ダムは一部地権者が建設に反対してきた。県は協議を重ねてきたがまとまらず、強制収用を選択肢の一つとして委員会に裁決を申請していた。
委員会は2015年10月から17年8月、ダム本体の建設地の一部と、ダム中上流部に当たる約12万平方メートル(家屋13軒などを含む)の補償額の妥当性などについて審理を進め、21日に裁決。県は定められた期日までに地権者に補償金を支払う。明け渡し期限後は、家屋を含む建物を強制的に撤去、土地を収用する「行政代執行」が可能となる。
石木ダムは慢性的な水不足が指摘された佐世保市の利水と、川棚町の水害を防ぐ治水を目的としているが、予定地で暮らす地権者の一部が必要性を疑問視し反対してきた。事業採択から7年後の82年、県が機動隊を投入して強制的に測量に踏み切ったこともあり住民らは強く反発。これまでに県が買収した土地は全体の81・1%で、残りが収用委の審理対象になっていた。
裁決について反対地権者13世帯の一人、「石木ダム建設に反対する川棚町民の会」代表で町議の炭谷猛さん(68)は「町民の中にも反対意見が多く、誤った判断だ。土地を明け渡すつもりはない」と憤る。取材に対し同県の中村法道知事は「これまで通り、地権者に理解してもらう努力を重ねる」と述べるにとどめた。
長崎)石木ダム用地 強制収用認める裁決 地権者ら反発
(朝日新聞長崎版2019年5月23日
石木ダム 土地の強制収用可能に
(NHK 2019年05月22日 12時20分)https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagasaki/20190522/5030003967.html
川棚町に建設が進められている石木ダムについて、県の収用委員会は、建設計画に反対する一部の地権者に対し、12万平方メートル余りの土地などの明け渡しを命じる裁決を出したことがわかり、必要な土地はこれですべて強制的に収用できるようになりました。
長崎県と佐世保市は、水道水の確保や洪水対策を目的に、285億円をかけて川棚町に石木ダムの建設を進めていますが、建設計画に反対する一部の地権者との用地交渉が難航しています。
県と佐世保市は、ダム建設に必要な土地を強制的に収用するため、これまでに県の収用委員会に「裁決申請」を行っていて、このうちおよそ5500平方メートルの土地については、平成27年に明け渡しを命じる裁決が出されています。
こうした中、21日に長崎市内で収用委員会が開かれ、地権者に対し、ダム本体の建設用地や水没予定地など12万平方メートル余りの土地などの明け渡しを命じる裁決を出したことが、関係者への取材でわかりました。
建設に必要な土地は、これですべて強制的に収用できるようになりました。
土地の明け渡し期限は、建物などの移転がある場合と、ない場合に分けて設定されていて、これを過ぎても住民が住み続ければ、県は強制的な家屋の撤去などを伴う行政代執行にも乗り出せることから、今後の対応が注目されます。
長崎県、石木ダム用地明け渡し命じる 地権者「住民を置き去り」
(毎日新聞2019/5/23(木) 22:41配信) https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190523-00000108-mai-pol
石木ダムの建設予定地
長崎県と佐世保市が同県川棚町に建設を計画している石木ダムについて、県収用委員会が予定地内の約12万平方メートルを明け渡すよう計画に反対する地権者に命じる裁決を出したことが関係者への取材で判明した。
裁決は21日付。今回の裁決で、ダム事業に必要な全ての土地を県が強制的に収用することが可能となり、地権者らが反発を強めている。
予定地を巡っては約5500平方メートルが2015年8月までに県に収用され、県は13世帯約60人が暮らす住宅などがあるダム本体用地など残り約12万平方メートルについても収用の裁決を申請していた。明け渡し期限後も住民が立ち退かない場合、行政代執行が可能になる。
現地では反対住民らが座り込みなどの抗議活動を続けており、地権者の炭谷猛さん(68)は「住民を置き去りにして、手続きだけを進めていくことに世論は納得しないだろう。ダムはいらないということを変わらず訴えていく」と話した。
石木ダムは1962年、川棚町に隣接する佐世保市の水不足解消などを目的に県と佐世保市が計画した。【浅野翔太郎、綿貫洋】
なるほドリ 大戸川ダム建設されるの? 滋賀県より重い費用負担、2府の同調が鍵
三日月大造滋賀県知事が建設を容認した大戸川(だいどがわ)ダムについての解説記事を掲載します。
大戸川ダムの現事業費1080億円の国負担を除く324億円の負担内訳は、大阪府186億円余り、京都府128億円余り、滋賀県8億円余りですから、大阪府と京都府がノーを言い続けることを期待します。
なるほドリ 大戸川ダム建設されるの?/滋賀
(毎日新聞滋賀版2019年5月15日)https://mainichi.jp/articles/20190515/ddl/k25/070/498000c
滋賀県治水の効果認め、知事方向転換 県より重い費用負担、2府の同調が鍵
なるほドリ 三日月大造知事が凍結中の大戸川(だいどがわ)ダム(大津市)の建設を容認する方針を表明したって記事で読んだよ。
記者 4月16日の記者会見で三日月知事が建設を容認し、計画の凍結解除を求める方針を表明しました。大戸川ダムは国が建設を計画し、1968年に予備計画調査に着手しましたが、2008年に国土交通省近畿地方整備局の諮問機関「淀川水系流域委員会」が「効果が限定的」として建設見直しを提言。同年、当時の嘉田由紀子知事が京都、大阪、三重各府県知事とともに「施策の優先順位が低い」として建設の凍結を求める共同見解を発表し、国は09年に事業凍結を決めていました。
しかし、近畿地整は16年、治水対策としてダム建設が有利とする評価案を公表。滋賀県も知事合意から10年が経過し、下流の河川整備が進み、全国で豪雨が相次いでいることを踏まえ、昨年、専門家を交えた独自の勉強会を設置しました。3回開かれた勉強会が今年3月、ダムの治水効果を認める報告をまとめたことを引き合いに、三日月知事は「一定の治水効果があることが分かった」と方針転換の理由を説明しました。
Q 表明はどう受け止められているのかな?
A 三日月知事を後継として引退した嘉田前知事は会見を開き、「ダムに一定の治水効果があることは、以前から分かっている。ダムは副作用もたくさんあり、必要性は費用や環境への影響、維持管理のあり方などを含めて総合的に判断すべきだ」と、疑問を呈しました。17年に県議会で知事合意の撤回を求める決議を賛成多数で可決させた最大会派の自民党や、地元住民らでつくる大戸川ダム対策協議会は歓迎しています。
Q これから建設が進むの?
A これからの焦点は京都、大阪両府が県に同調するかですが、両府とも慎重な姿勢です。政治情勢は建設反対で一枚岩となった08年当時とは異なりますが、ダム建設には重い費用負担があるからです。1000億円以上の本体工事費の3割を県と両府が負担することになっていますが、下流にダムの恩恵が及ぶという考えから、両府の負担は県より重くなります。三日月知事の表明を受け、大阪府の吉村洋文知事は独自の検証委員会を発足させることを表明しました。三日月知事は関係府県に県の立場を説明する方針です。<回答・成松秋穂(大津支局)>
東京五輪へ水がめ渇水防げ 関東地方整備局が貯水2割増へ素案
東京五輪に備えて関東地方整備局が2020年の渇水対策を検討しています。
関東地方整備局の検討内容は「東京2020オリンピック・パラリンピックに向けた水の安定供給のための行動計画素案」(2019年3月27日)
http://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000742955.pdf をご覧ください。
この渇水対策について上毛新聞の記事を掲載します。
2020年は関東地方の七つのダムで夏期に治水容量の一部を空にせずに利水容量として確保するなどして、貯水を2割増やすというものです。
この記事の中で、矢木沢ダムの発電専用容量の話が出ています。参考のため、矢木沢ダムの貯水容量配分図を下記に示します。
矢木沢ダムは利水用最低水位の下に、発電専用容量が3820万㎥もあります。
たまに起きる利根川渇水ではこの矢木沢ダムがニュースや記事で取り上げられ、もうすぐ空になりそうだという印象を与える写真が紹介されますが、実際にはこの発電専用容量3820万㎥が手つかずに残っていることがほとんど報じられません。
さらに、付言すれば、矢木沢ダムの底にある死水容量2850万㎥です。堆砂容量は1470万㎥ですから、1380万㎥も余分に確保されています。
古いダムはこのような容量配分になっていることがあります。
利根川上流ダム群(5ダム) 定期報告書の概要(平成26年12月26日) http://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000620438.pdf を見ると、
利根川上流ダムの中で藤原ダム、相俣ダムも死水容量-堆砂容量がそれぞれ、1660万㎥-802万㎥=858万㎥、500万㎥-255万㎥=245万㎥あります。
矢木沢ダムと合わせると、3ダムで2483万㎥です。
この「死水容量-堆砂容量」は利水放流管を堆砂容量のすぐ上に設置すれば、有効利用することができます。
今年3月に完了した鹿野川ダム改造事業では、鹿野川ダムにトンネル洪水吐きを設置するとともに、低水放流設備を設置して、死水容量-堆砂容量をゼロにしました。
鹿野川ダム改造事業(http://www.skr.mlit.go.jp/yamatosa/parts/kanogawa-jigyou.pdf の10ページ)
このように利根川上流ダムには矢木沢ダムの発電専用容量3820万㎥のほかに低水放流設備を設置すれば利用可能な「死水容量-堆砂容量」が矢木沢ダム、藤原ダム、相俣ダムで合計2483万㎥あります。合わせると、6303万㎥になります。
来年3月完成予定の八ッ場ダムの夏期利水容量は2500万㎥ですから、その2.5倍にもなります。
既設の利根川上流ダムに隠し財産というべき大量の水が確保されているのですから、八ッ場ダムをつくることよりもそれを有効に使うことを考えるべきです。
東京五輪へ水がめ渇水防げ 関東地方整備局が貯水2割増へ素案
(写真)上毛新聞社 関東地方整備局による渇水対策が実施される下久保ダムの神流湖
2020年夏に開催される東京五輪・パラリンピックに向け、国土交通省関東地方整備局は、水資源を効果的に活用し、渇水時でも水を安定供給するための行動計画の素案をまとめた。海外からの来訪者の増加などにより、都市部の水需要が高まると想定。県内のダムでは平常時より多く貯水したり発電用の貯水を回したりして、平年と比べ最大で約2割多い水量の確保を目指す。首都圏の「水がめ」となる群馬県での渇水対策を軸に、真夏の五輪開催へ万全の体制を整える。
素案によると、渇水に対応するため、平常時は洪水に備えて空き容量を確保するダムに、支障をきたさない範囲で水をためる。関東地方の七つのダムで実施予定で、県内では利根川水系の薗原、下久保、草木の3ダムが対象。
この他にも、矢木沢ダムでは断水など深刻な被害が生じる恐れがある場合、本来は発電専用にためられている水を水道水などに活用できるよう東京電力に要請。
薗原ダムでは施設維持のための工事を五輪前に予定していたが、工事の前後で水位を下げる必要が生じるため、五輪後にずらして水量を確保する。
その日を前に 八ッ場ダム水没地区住民の今/2、3、4
八ッ場ダムの水没地区住民の今を追った連載記事の第2回、第3回、第4回を掲載します。
第2回は川原湯温泉の旅館で老舗中の老舗の「山木館」の経営者、樋田洋二さん、
第3回は川原湯温泉の老舗旅館「山木館」の養子になった樋田隼人さん、
第4回は10キロほど下流の中之条町に移転し、国道沿いにカフェ「ビスケット」を開いた竹田朋子さんと、朋子さんの父、博栄(ひろえ)さんです。
この第4回でおわりですが、この連載は水没地区住民の現状と心情がよくわかる、心に残る記事でした。
その日を前に
八ッ場ダム水没地区住民の今/2 老舗旅館「山木館」樋田洋二さん まちの維持も困難 /群馬
(毎日新聞群馬版2019年4月27日)https://mainichi.jp/articles/20190427/ddl/k10/040/056000c
温泉街の宿 代替地で営業5軒のみ
長野原町の川原湯温泉は今から800年前、源頼朝が発見したと伝えられている。最盛期には民宿を含め20軒弱の宿が建ち並び、行楽シーズンになると町は一晩で700~800人ほどの宿泊客であふれた。八ッ場ダムで水没するのに伴い造られた代替地で営業中の旅館は5軒しかない。
「後継ぎがいなくて廃業した宿もたくさんあるんだよ」。川原湯温泉の旅館で老舗中の老舗の「山木館」の14代目、樋田洋二さん(72)は、2013年に新築した宿のストーブにまきをくべながら、ぽつりぽつりと川原湯温泉の今を話し始めた。
◇ ◇
山木館は江戸時代開業とされる。民主党政権下で止まった八ッ場ダム建設の再開決定直前の11年11月に、先陣を切って代替地で新しい旅館の棟上げ式を行った。「待っていたらいつ再建できるか分からなかった」。だが後に続く旅館は少なかった。想定外だった。「10軒ぐらいは再建すると思っていたけれども……。それぞれに家庭の事情があるから仕方がないのだが」
樋田さんは川原湯温泉が今後も温泉地として生き残っていくためには、ダムを観光資源にすることが必要だと思っている。移転前は旅館の組合などで、温泉街のあり方について宿の経営者同士が話し合う機会もあった。だが、今は「どの宿も再建したばかりで自分たちのことで精いっぱい」。宿同士が協力して温泉街を盛り上げていこうという雰囲気はあまりない。
樋田さん自身、5年前に脳梗塞(こうそく)を患って以来、「体力的にも精神的にも落ち込んでいる」状態が続く。「もう少し元気ならもっと勉強して、『自分でどうにかしなきゃ』と思っていた」が、病気になり、これで「引き際」と思うようになった。「宿の再建まではやったから、この後は若い世代が責任を持って観光を頑張ってもらいたい」
◇ ◇
だが、今、まちを維持するのも難しい状況に陥っている。川原湯地区で移転代替地に移った住民は3分の1程度。代替地の造成が遅れた影響で、まるで「歯が抜けるよう」に、家が一つ、また一つと減っていき、「気がついたら、まちからほとんどの建物がなくなっていた」。人口の減少は、残る選択をした人たちの暮らしを直撃している。草刈りなど地域の作業の人手が足りない。川原湯伝統の湯かけ祭りの運営も、地元の住民が1人何役も掛け持ちしてやっている。かつては定員いっぱいで、空きを待たなければ入団できなかった消防団も、ダム湖の対岸の川原畑地区の住人と共同で運営することでようやく維持している。
「人が減り“まち”を存続するのが難しくなっている」。そう語る樋田さんの顔には苦労の色がにじむ。【西銘研志郎】=つづく
その日を前に
八ッ場ダム水没地区住民の今/3 「山木館」15代目・樋田勇人さん 「担い手」呼び再起を /群馬
(毎日新聞群馬版2019年4月29日)https://mainichi.jp/articles/20190429/ddl/k10/040/031000c
町の知名度アップ 来年までが勝負
「15代目です」。胸に付けたネームプレートには、手書きで、名前とともにプロフィル代わりのメッセージが添えられている。樋田勇人さん(24)は4年前、川原湯温泉の中でおよそ360年の歴史を持つ老舗旅館「山木館」の跡取りになるため養子に入った。
父方の祖母の実家が山木館だった。昔から親戚で用事があれば、みんなで集まる場所は山木館と決まっていた。
14代目の樋田洋二さん(72)、文子さん(70)夫婦には子がいなかった。高校生のころから、文子さんから「後継ぎがいないから社長にならない?」と声をかけられていた。
当時は「社長かあ」とぼんやりと自分の将来を思い浮かべていたぐらいだったが、大学生になり経営学を専攻し、商売のおもしろさに目覚めた。
何より山木館に存続の危機が迫っていた。「大好きな山木館がなくなるのは嫌だった」と大学3年生のころ、養子の話を受け入れた。大学を卒業すると同時に働き始め、常連客と接するうちに、みな自分と同じ思いを持っているのだと知った。
◇ ◇
勇人さんは今、地元や長野原町役場の職員らと八ッ場ダムを生かした地域活性化を目指す「チームやんば」の一員として活動している。国土交通省の認定を受け、ダムのガイドである「コンシェルジュ」として、訪れる観光客にダムを案内している。
国交省が企画した「八ッ場ダムファン倶楽部(くらぶ)」の会員を集め、川原湯の高齢者にダム完成までの経緯や建設反対運動の歴史、かつての川原湯の暮らしなどを語ってもらうツアーの運営にも関わるなど精力的に動いている。
◇ ◇
「でも楽観はできない」。勇人さんは表情を引き締める。新たに住民を呼び込むのは簡単ではない。
今、目指しているのは「関係人口」を増やすことだ。
関係人口とは、移住した「定住人口」でも、観光に来た「交流人口」でもなく、さまざまな分野で、その地域に関わる人々のことを指す。実際に暮らしていなくても、地域の担い手として貢献できる存在という意味だ。
勇人さんは「過疎や高齢化で減る地域の担い手を、地元以外に住む人から集められるようにしたい」と語る。
そのためには、川原湯温泉や八ッ場ダムを含めた長野原町全体の魅力と知名度を高めなければならない。
建設工事を巡り世間の耳目を集めた八ッ場ダムだが、「完成してしまえば、注目される機会もなくなってしまう」とも思っている。
「今やらなきゃこの町は忘れ去られてしまう。来年までにこの町の命運が決まってしまうくらいで考えている」【西銘研志郎】=つづく
その日を前に
八ッ場ダム水没地区住民の今/4止 中之条・カフェ店主 竹田朋子さん 離れても、心は故郷に /群馬
(毎日新聞群馬版 2019年5月1日)https://mainichi.jp/articles/20190501/ddl/k10/040/025000c
代替地整備進まず移住
八ッ場ダムの建設地から10キロほど離れた中之条町の国道沿いにあるカフェ「ビスケット」は、手作りのケーキとおいしいコーヒーが楽しめるとインターネットの口コミサイトで評判の店だ。店内には重厚感のある木製のテーブルや椅子が並ぶ。その椅子に彫られた「川原湯館」という文字に気づく客は多くはない。
店を営む竹田朋子さん(64)の実家は、八ッ場ダムの底に沈んでしまう川原湯温泉の旅館「川原湯館」だった。終戦直後、「傷ついた人たちを温泉で癒やしたい」と朋子さんの祖父が湯治目的で社団法人をつくり、それを引き継ぐ形で、朋子さんの両親が1958年に旅館を開業した。
“3代目”にあたる朋子さんはお菓子作りが得意だったこともあり、旅館をたたみ、代替地で喫茶店を開く夢を持っていた。だが、いつまでたっても代替地の整備が進まない。「蛇の生殺し状態だった」。先が見通せない生活に疲れ果て、2006年、故郷を離れ、中之条に移り住んだ。家族の中で移住することに反対はなかった。同時期、周りの住民も一人、また一人地元から出て行った。
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「『早く移転してよかった』とみんな言っていたよ」。かつてダム建設の反対期成同盟の委員長を務めた朋子さんの父、博栄(ひろえ)さん(89)は町を出た頃のことを振り返る。その頃、八ッ場から移転した人たち同士で「八ッ場会」というサークルを作り、一緒に何度か旅に行ったことがある。新しい町での暮らしや愚痴を言い合ったが、一致したのは「早く移転してよかった」ということだった。
だが、ふるさとを離れた人たちの中には複雑な思いを抱えている人も少なくない。心の中にあるのは地元に残ることを決めた人たちの暮らしだった。
09年の政権交代で突然降ってわいたダム工事中止宣言。残る選択をした住民たちは、これまで以上に先が見えない不安にさらされた。そんなかつての隣人たちを、博栄さんは「みじめな思いをしただろう」とおもんぱかる。
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朋子さんは、ある時、知人から冗談まじりに「いい所に逃げてこられてよかったね」と言われたことが今も忘れられない。本人に悪気がないのは分かっている。でも、「逃げた」という言葉が胸に深く刺さった。大好きな故郷。逃げたわけではないのに……。
それでも、川原湯を離れる時、親しい近所の人からかけられた言葉に支えられてきた。「これでよかったんだと思いなさいよ」。その人は今、代替地で暮らしている。新天地でも「これでよかったんだ」と呪文のように唱え続けて生きてきた。
ふるさとを離れて10年以上がたった。自分たちの暮らしはようやく落ち着いてきた。しかし、再建途中の旅館があるなど、川原湯の現状を思うと、心が落ち着かない。「新しい川原湯が完成した時に、やっと自分たちも落ち着けるんだと思う。どこに行ったとしても出て行った人はみんな川原湯が気になるから」。離れてもなお、心は故郷を思い続けている。【西銘研志郎】=おわり
住民運動 国動かした二つの民意 細川内ダム中止/吉野川第十堰投票 「報道の力」も弾み /徳島
1990年代後半から2000年代前半はダム・堰の反対運動が大きく広がり、いくつかのダム・堰が中止になりました。徳島県では細川内ダム(旧木頭村(現那賀町))が中止、吉野川第十堰(徳島市)の可動堰化計画が実質中止になりました。
その当時を振り返った記事を掲載します。
住民運動 国動かした二つの民意 細川内ダム中止/吉野川第十堰投票 「報道の力」も弾み /徳島
(毎日新聞徳島版2019年4月26日)https://mainichi.jp/articles/20190426/ddl/k36/040/475000c
(写真)投票率が50%を越え住民投票成立が確実となり、喜ぶ「第十堰住民投票の会」のメンバー。代表世話人の姫野雅義さん(中央)と住友達也さん(右)=徳島市昭和町で2000年1月23日、小関勉撮影
5月1日に新元号「令和」となり、平成が幕を閉じる。平成に県内で起こった、旧木頭村(現那賀町)の細川内ダム建設中止運動と、吉野川第十堰(徳島市)の可動堰化計画を巡る住民投票は、いずれも民意が国を動かし、全国から注目を集めた。運動を成功に導くために大切にされていた思いを探る。【岩本桜】
徳島市中心部から車で約2時間半。さらに那賀町役場木頭支所から2キロほど西に車を走らせると、細川内ダムの建設予定地に着いた。見渡すと木頭杉に囲まれた民家や畑が並び、中央を流れる那賀川は透き通ったままだ。
(写真)細川内ダム建設に伴い設置された相談所について抗議する藤田恵木頭村村長(当時)=徳島県那賀町役場木頭支所提供
1971年、国によるダム建設計画が公になると、村は「環境破壊と過疎化に拍車がかかる」と反対運動を約30年続けた。2000年に国から中止が発表され、動き出したら止まらないといわれる国の公共事業を小さな村が中止に追い込んだとして、大きな話題となった。村長として運動の中心にいた藤田恵さん(79)は「運動のやり方次第で、小さな村でも国の方針を変えることができると実証できた」と振り返る。
(写真)建設中止になった細川内ダムの建設予定地=徳島県那賀町で2018年12月8日、本社機「希望」から加古信志撮影
1993年、「村に残された清流を子孫に残す義務がある」と使命感を抱く藤田さんが村長に当選すると、反対運動は激しさを増した。「報道の力」も運動の背中を押したという。報道機関に情報発信することでダム問題が全国的に広く知れ渡り、藤田さんも「報道で多くの国会議員などが問題視するきっかけになり、反対運動に弾みがついた」と実感する。2000年には、旧四国地方建設局が中止はやむを得ないとの方針を示し、その後正式に建設計画の中止を発表した。
反対運動に関わった那賀町議の大澤夫左二さん(83)は「藤田さんという意志のぶれない首長を迎え入れたことが大きな勝因だった」と断言。藤田さんや村民が一貫して反対姿勢を貫き、報道や政治家を巻き込んでダム問題を幅広く周知させたことが、計画中止の要因となった。
一人一人の意思
(写真)吉野川第十堰=徳島市で2018年10月28日、本社ヘリから小松雄介撮影
「運動を終えて、吉野川には『可動堰反対』という民意のモニュメントが建った。これは簡単には動かせない」。「第十堰住民投票の会」で事務局長を務めた移動店舗業、Tサポートの村上稔社長(52)は感慨深げだった。1991年、旧建設省(現国交省)より吉野川の第十堰を取り壊し、新たに可動堰を建設する計画が持ち上がると、可動堰建設の賛否を問う住民投票を実現させるため、姫野雅義さん(享年63歳)を中心に住民運動が起こった。
シンポジウムや集会などを通して「あなたはどう思いますか」と住民一人一人に問いかけ、投票で決めようと訴えた。同会の代表世話人だった、移動スーパーを運営するとくし丸社長の住友達也さん(61)は「可動堰の反対運動ではなく、賛成でも反対でも良いので投票で決めることに徹底的にこだわった」と強調する。「投票率50%以上」が住民投票の成立要件で、計画推進派は投票のボイコットをアピールした。「住民が自ら考え、意思表示をしよう」。住友さんが、運動を通して伝え続けた思いだ。
2000年に徳島市で住民投票が行われ、投票率は54・995%。うち反対票が約90%と圧倒的多数を占めた。結果を受けて国は建設中止へかじを切った。村上さんは「問題について住民が熟知した上で投票を行えた」と振り返り「国や権力による一方的な押しつけに対して、民意が勝利した。民主主義のテキストになる」と力強く話した。