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東京五輪へ水がめ渇水防げ 関東地方整備局が貯水2割増へ素案 

2019年5月6日
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東京五輪に備えて関東地方整備局が2020年の渇水対策を検討しています。

関東地方整備局の検討内容は「東京2020オリンピック・パラリンピックに向けた水の安定供給のための行動計画素案」(2019年3月27日)
http://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000742955.pdf をご覧ください。

この渇水対策について上毛新聞の記事を掲載します。
2020年は関東地方の七つのダムで夏期に治水容量の一部を空にせずに利水容量として確保するなどして、貯水を2割増やすというものです。
この記事の中で、矢木沢ダムの発電専用容量の話が出ています。参考のため、矢木沢ダムの貯水容量配分図を下記に示します。


矢木沢ダムは利水用最低水位の下に、発電専用容量が3820万㎥もあります。
たまに起きる利根川渇水ではこの矢木沢ダムがニュースや記事で取り上げられ、もうすぐ空になりそうだという印象を与える写真が紹介されますが、実際にはこの発電専用容量3820万㎥が手つかずに残っていることがほとんど報じられません。

さらに、付言すれば、矢木沢ダムの底にある死水容量2850万㎥です。堆砂容量は1470万㎥ですから、1380万㎥も余分に確保されています。
古いダムはこのような容量配分になっていることがあります。
利根川上流ダム群(5ダム) 定期報告書の概要(平成26年12月26日) http://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000620438.pdf を見ると、
利根川上流ダムの中で藤原ダム、相俣ダムも死水容量-堆砂容量がそれぞれ、1660万㎥-802万㎥=858万㎥、500万㎥-255万㎥=245万㎥あります。
矢木沢ダムと合わせると、3ダムで2483万㎥です。
この「死水容量-堆砂容量」は利水放流管を堆砂容量のすぐ上に設置すれば、有効利用することができます。
今年3月に完了した鹿野川ダム改造事業では、鹿野川ダムにトンネル洪水吐きを設置するとともに、低水放流設備を設置して、死水容量-堆砂容量をゼロにしました。
鹿野川ダム改造事業http://www.skr.mlit.go.jp/yamatosa/parts/kanogawa-jigyou.pdf の10ページ)
このように利根川上流ダムには矢木沢ダムの発電専用容量3820万㎥のほかに低水放流設備を設置すれば利用可能な「死水容量-堆砂容量」が矢木沢ダム、藤原ダム、相俣ダムで合計2483万㎥あります。合わせると、6303万㎥になります。
来年3月完成予定の八ッ場ダムの夏期利水容量は2500万㎥ですから、その2.5倍にもなります。
既設の利根川上流ダムに隠し財産というべき大量の水が確保されているのですから、八ッ場ダムをつくることよりもそれを有効に使うことを考えるべきです。

東京五輪へ水がめ渇水防げ 関東地方整備局が貯水2割増へ素案

(上毛新聞2019/05/06 06:00) https://www.msn.com/ja-jp/finance/other/e6-9d-b1-e4-ba-ac-e4-ba-94-e8-bc-aa-e3-81-b8-e6-b0-b4-e3-81-8c-e3-82-81-e6-b8-87-e6-b0-b4-e9-98-b2-e3-81-92-e9-96-a2-e6-9d-b1-e5-9c-b0-e6-96-b9-e6-95-b4-e5-82-99-e5-b1-80-e3-81-8c-e8-b2-af-e6-b0-b4-ef-bc-92-e5-89-b2-e5-a2-97-e3-81-b8-e7-b4-a0-e6-a1-88/ar-AAAW9G9#page=2

(写真)上毛新聞社 関東地方整備局による渇水対策が実施される下久保ダムの神流湖
2020年夏に開催される東京五輪・パラリンピックに向け、国土交通省関東地方整備局は、水資源を効果的に活用し、渇水時でも水を安定供給するための行動計画の素案をまとめた。海外からの来訪者の増加などにより、都市部の水需要が高まると想定。県内のダムでは平常時より多く貯水したり発電用の貯水を回したりして、平年と比べ最大で約2割多い水量の確保を目指す。首都圏の「水がめ」となる群馬県での渇水対策を軸に、真夏の五輪開催へ万全の体制を整える。
素案によると、渇水に対応するため、平常時は洪水に備えて空き容量を確保するダムに、支障をきたさない範囲で水をためる。関東地方の七つのダムで実施予定で、県内では利根川水系の薗原、下久保、草木の3ダムが対象。
この他にも、矢木沢ダムでは断水など深刻な被害が生じる恐れがある場合、本来は発電専用にためられている水を水道水などに活用できるよう東京電力に要請。
薗原ダムでは施設維持のための工事を五輪前に予定していたが、工事の前後で水位を下げる必要が生じるため、五輪後にずらして水量を確保する。

その日を前に  八ッ場ダム水没地区住民の今/2、3、4 

2019年5月1日
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八ッ場ダムの水没地区住民の今を追った連載記事の第2回、第3回、第4回を掲載します。
第2回は川原湯温泉の旅館で老舗中の老舗の「山木館」の経営者、樋田洋二さん、
第3回は川原湯温泉の老舗旅館「山木館」の養子になった樋田隼人さん、

第4回は10キロほど下流の中之条町に移転し、国道沿いにカフェ「ビスケット」を開いた竹田朋子さんと、朋子さんの父、博栄(ひろえ)さんです。
この第4回でおわりですが、この連載は水没地区住民の現状と心情がよくわかる、心に残る記事でした。

その日を前に
八ッ場ダム水没地区住民の今/2 老舗旅館「山木館」樋田洋二さん まちの維持も困難 /群馬
(毎日新聞群馬版2019年4月27日)https://mainichi.jp/articles/20190427/ddl/k10/040/056000c

温泉街の宿 代替地で営業5軒のみ
長野原町の川原湯温泉は今から800年前、源頼朝が発見したと伝えられている。最盛期には民宿を含め20軒弱の宿が建ち並び、行楽シーズンになると町は一晩で700~800人ほどの宿泊客であふれた。八ッ場ダムで水没するのに伴い造られた代替地で営業中の旅館は5軒しかない。
「後継ぎがいなくて廃業した宿もたくさんあるんだよ」。川原湯温泉の旅館で老舗中の老舗の「山木館」の14代目、樋田洋二さん(72)は、2013年に新築した宿のストーブにまきをくべながら、ぽつりぽつりと川原湯温泉の今を話し始めた。
◇  ◇
山木館は江戸時代開業とされる。民主党政権下で止まった八ッ場ダム建設の再開決定直前の11年11月に、先陣を切って代替地で新しい旅館の棟上げ式を行った。「待っていたらいつ再建できるか分からなかった」。だが後に続く旅館は少なかった。想定外だった。「10軒ぐらいは再建すると思っていたけれども……。それぞれに家庭の事情があるから仕方がないのだが」
樋田さんは川原湯温泉が今後も温泉地として生き残っていくためには、ダムを観光資源にすることが必要だと思っている。移転前は旅館の組合などで、温泉街のあり方について宿の経営者同士が話し合う機会もあった。だが、今は「どの宿も再建したばかりで自分たちのことで精いっぱい」。宿同士が協力して温泉街を盛り上げていこうという雰囲気はあまりない。
樋田さん自身、5年前に脳梗塞(こうそく)を患って以来、「体力的にも精神的にも落ち込んでいる」状態が続く。「もう少し元気ならもっと勉強して、『自分でどうにかしなきゃ』と思っていた」が、病気になり、これで「引き際」と思うようになった。「宿の再建まではやったから、この後は若い世代が責任を持って観光を頑張ってもらいたい」
◇  ◇
だが、今、まちを維持するのも難しい状況に陥っている。川原湯地区で移転代替地に移った住民は3分の1程度。代替地の造成が遅れた影響で、まるで「歯が抜けるよう」に、家が一つ、また一つと減っていき、「気がついたら、まちからほとんどの建物がなくなっていた」。人口の減少は、残る選択をした人たちの暮らしを直撃している。草刈りなど地域の作業の人手が足りない。川原湯伝統の湯かけ祭りの運営も、地元の住民が1人何役も掛け持ちしてやっている。かつては定員いっぱいで、空きを待たなければ入団できなかった消防団も、ダム湖の対岸の川原畑地区の住人と共同で運営することでようやく維持している。
「人が減り“まち”を存続するのが難しくなっている」。そう語る樋田さんの顔には苦労の色がにじむ。【西銘研志郎】=つづく


その日を前に

八ッ場ダム水没地区住民の今/3 「山木館」15代目・樋田勇人さん 「担い手」呼び再起を /群馬
(毎日新聞群馬版2019年4月29日)https://mainichi.jp/articles/20190429/ddl/k10/040/031000c

町の知名度アップ 来年までが勝負
「15代目です」。胸に付けたネームプレートには、手書きで、名前とともにプロフィル代わりのメッセージが添えられている。樋田勇人さん(24)は4年前、川原湯温泉の中でおよそ360年の歴史を持つ老舗旅館「山木館」の跡取りになるため養子に入った。
父方の祖母の実家が山木館だった。昔から親戚で用事があれば、みんなで集まる場所は山木館と決まっていた。
14代目の樋田洋二さん(72)、文子さん(70)夫婦には子がいなかった。高校生のころから、文子さんから「後継ぎがいないから社長にならない?」と声をかけられていた。
当時は「社長かあ」とぼんやりと自分の将来を思い浮かべていたぐらいだったが、大学生になり経営学を専攻し、商売のおもしろさに目覚めた。
何より山木館に存続の危機が迫っていた。「大好きな山木館がなくなるのは嫌だった」と大学3年生のころ、養子の話を受け入れた。大学を卒業すると同時に働き始め、常連客と接するうちに、みな自分と同じ思いを持っているのだと知った。
◇  ◇
勇人さんは今、地元や長野原町役場の職員らと八ッ場ダムを生かした地域活性化を目指す「チームやんば」の一員として活動している。国土交通省の認定を受け、ダムのガイドである「コンシェルジュ」として、訪れる観光客にダムを案内している。
国交省が企画した「八ッ場ダムファン倶楽部(くらぶ)」の会員を集め、川原湯の高齢者にダム完成までの経緯や建設反対運動の歴史、かつての川原湯の暮らしなどを語ってもらうツアーの運営にも関わるなど精力的に動いている。
◇  ◇
「でも楽観はできない」。勇人さんは表情を引き締める。新たに住民を呼び込むのは簡単ではない。
今、目指しているのは「関係人口」を増やすことだ。
関係人口とは、移住した「定住人口」でも、観光に来た「交流人口」でもなく、さまざまな分野で、その地域に関わる人々のことを指す。実際に暮らしていなくても、地域の担い手として貢献できる存在という意味だ。
勇人さんは「過疎や高齢化で減る地域の担い手を、地元以外に住む人から集められるようにしたい」と語る。
そのためには、川原湯温泉や八ッ場ダムを含めた長野原町全体の魅力と知名度を高めなければならない。
建設工事を巡り世間の耳目を集めた八ッ場ダムだが、「完成してしまえば、注目される機会もなくなってしまう」とも思っている。
「今やらなきゃこの町は忘れ去られてしまう。来年までにこの町の命運が決まってしまうくらいで考えている」【西銘研志郎】=つづく


その日を前に

八ッ場ダム水没地区住民の今/4止 中之条・カフェ店主 竹田朋子さん 離れても、心は故郷に /群馬
(毎日新聞群馬版 2019年5月1日)https://mainichi.jp/articles/20190501/ddl/k10/040/025000c

代替地整備進まず移住
八ッ場ダムの建設地から10キロほど離れた中之条町の国道沿いにあるカフェ「ビスケット」は、手作りのケーキとおいしいコーヒーが楽しめるとインターネットの口コミサイトで評判の店だ。店内には重厚感のある木製のテーブルや椅子が並ぶ。その椅子に彫られた「川原湯館」という文字に気づく客は多くはない。
店を営む竹田朋子さん(64)の実家は、八ッ場ダムの底に沈んでしまう川原湯温泉の旅館「川原湯館」だった。終戦直後、「傷ついた人たちを温泉で癒やしたい」と朋子さんの祖父が湯治目的で社団法人をつくり、それを引き継ぐ形で、朋子さんの両親が1958年に旅館を開業した。
“3代目”にあたる朋子さんはお菓子作りが得意だったこともあり、旅館をたたみ、代替地で喫茶店を開く夢を持っていた。だが、いつまでたっても代替地の整備が進まない。「蛇の生殺し状態だった」。先が見通せない生活に疲れ果て、2006年、故郷を離れ、中之条に移り住んだ。家族の中で移住することに反対はなかった。同時期、周りの住民も一人、また一人地元から出て行った。
◇  ◇
「『早く移転してよかった』とみんな言っていたよ」。かつてダム建設の反対期成同盟の委員長を務めた朋子さんの父、博栄(ひろえ)さん(89)は町を出た頃のことを振り返る。その頃、八ッ場から移転した人たち同士で「八ッ場会」というサークルを作り、一緒に何度か旅に行ったことがある。新しい町での暮らしや愚痴を言い合ったが、一致したのは「早く移転してよかった」ということだった。
だが、ふるさとを離れた人たちの中には複雑な思いを抱えている人も少なくない。心の中にあるのは地元に残ることを決めた人たちの暮らしだった。
09年の政権交代で突然降ってわいたダム工事中止宣言。残る選択をした住民たちは、これまで以上に先が見えない不安にさらされた。そんなかつての隣人たちを、博栄さんは「みじめな思いをしただろう」とおもんぱかる。
◇  ◇
朋子さんは、ある時、知人から冗談まじりに「いい所に逃げてこられてよかったね」と言われたことが今も忘れられない。本人に悪気がないのは分かっている。でも、「逃げた」という言葉が胸に深く刺さった。大好きな故郷。逃げたわけではないのに……。
それでも、川原湯を離れる時、親しい近所の人からかけられた言葉に支えられてきた。「これでよかったんだと思いなさいよ」。その人は今、代替地で暮らしている。新天地でも「これでよかったんだ」と呪文のように唱え続けて生きてきた。
ふるさとを離れて10年以上がたった。自分たちの暮らしはようやく落ち着いてきた。しかし、再建途中の旅館があるなど、川原湯の現状を思うと、心が落ち着かない。「新しい川原湯が完成した時に、やっと自分たちも落ち着けるんだと思う。どこに行ったとしても出て行った人はみんな川原湯が気になるから」。離れてもなお、心は故郷を思い続けている。【西銘研志郎】=おわり

住民運動 国動かした二つの民意 細川内ダム中止/吉野川第十堰投票 「報道の力」も弾み /徳島

2019年4月27日
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1990年代後半から2000年代前半はダム・堰の反対運動が大きく広がり、いくつかのダム・堰が中止になりました。徳島県では細川内ダム(旧木頭村(現那賀町))が中止、吉野川第十堰(徳島市)の可動堰化計画が実質中止になりました。
その当時を振り返った記事を掲載します。

住民運動 国動かした二つの民意 細川内ダム中止/吉野川第十堰投票 「報道の力」も弾み /徳島
(毎日新聞徳島版2019年4月26日)https://mainichi.jp/articles/20190426/ddl/k36/040/475000c

(写真)投票率が50%を越え住民投票成立が確実となり、喜ぶ「第十堰住民投票の会」のメンバー。代表世話人の姫野雅義さん(中央)と住友達也さん(右)=徳島市昭和町で2000年1月23日、小関勉撮影

5月1日に新元号「令和」となり、平成が幕を閉じる。平成に県内で起こった、旧木頭村(現那賀町)の細川内ダム建設中止運動と、吉野川第十堰(徳島市)の可動堰化計画を巡る住民投票は、いずれも民意が国を動かし、全国から注目を集めた。運動を成功に導くために大切にされていた思いを探る。【岩本桜】
徳島市中心部から車で約2時間半。さらに那賀町役場木頭支所から2キロほど西に車を走らせると、細川内ダムの建設予定地に着いた。見渡すと木頭杉に囲まれた民家や畑が並び、中央を流れる那賀川は透き通ったままだ。

(写真)細川内ダム建設に伴い設置された相談所について抗議する藤田恵木頭村村長(当時)=徳島県那賀町役場木頭支所提供
1971年、国によるダム建設計画が公になると、村は「環境破壊と過疎化に拍車がかかる」と反対運動を約30年続けた。2000年に国から中止が発表され、動き出したら止まらないといわれる国の公共事業を小さな村が中止に追い込んだとして、大きな話題となった。村長として運動の中心にいた藤田恵さん(79)は「運動のやり方次第で、小さな村でも国の方針を変えることができると実証できた」と振り返る。

(写真)建設中止になった細川内ダムの建設予定地=徳島県那賀町で2018年12月8日、本社機「希望」から加古信志撮影
1993年、「村に残された清流を子孫に残す義務がある」と使命感を抱く藤田さんが村長に当選すると、反対運動は激しさを増した。「報道の力」も運動の背中を押したという。報道機関に情報発信することでダム問題が全国的に広く知れ渡り、藤田さんも「報道で多くの国会議員などが問題視するきっかけになり、反対運動に弾みがついた」と実感する。2000年には、旧四国地方建設局が中止はやむを得ないとの方針を示し、その後正式に建設計画の中止を発表した。
反対運動に関わった那賀町議の大澤夫左二さん(83)は「藤田さんという意志のぶれない首長を迎え入れたことが大きな勝因だった」と断言。藤田さんや村民が一貫して反対姿勢を貫き、報道や政治家を巻き込んでダム問題を幅広く周知させたことが、計画中止の要因となった。

一人一人の意思

(写真)吉野川第十堰=徳島市で2018年10月28日、本社ヘリから小松雄介撮影
「運動を終えて、吉野川には『可動堰反対』という民意のモニュメントが建った。これは簡単には動かせない」。「第十堰住民投票の会」で事務局長を務めた移動店舗業、Tサポートの村上稔社長(52)は感慨深げだった。1991年、旧建設省(現国交省)より吉野川の第十堰を取り壊し、新たに可動堰を建設する計画が持ち上がると、可動堰建設の賛否を問う住民投票を実現させるため、姫野雅義さん(享年63歳)を中心に住民運動が起こった。
シンポジウムや集会などを通して「あなたはどう思いますか」と住民一人一人に問いかけ、投票で決めようと訴えた。同会の代表世話人だった、移動スーパーを運営するとくし丸社長の住友達也さん(61)は「可動堰の反対運動ではなく、賛成でも反対でも良いので投票で決めることに徹底的にこだわった」と強調する。「投票率50%以上」が住民投票の成立要件で、計画推進派は投票のボイコットをアピールした。「住民が自ら考え、意思表示をしよう」。住友さんが、運動を通して伝え続けた思いだ。
2000年に徳島市で住民投票が行われ、投票率は54・995%。うち反対票が約90%と圧倒的多数を占めた。結果を受けて国は建設中止へかじを切った。村上さんは「問題について住民が熟知した上で投票を行えた」と振り返り「国や権力による一方的な押しつけに対して、民意が勝利した。民主主義のテキストになる」と力強く話した。

その日を前に 八ッ場ダム水没地区住民の今/1 レストラン店主・水出耕一さん 「器あるが中身ない」 /群馬

2019年4月27日
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八ッ場ダムは急ピッチで本体工事が進められており、今年10月からの試験湛水の進捗状況、結果によって完成時期が延びる可能性がありますが、今のところ、来年3月末に完成する予定になっています。
八ッ場ダムの水没地区住民の今を追った連載記事の第1回を掲載します。
第1回はレストラン「赤いえんとつ」を経営する水出耕一さんです。

その日を前に
八ッ場ダム水没地区住民の今/1 レストラン店主・水出耕一さん 「器あるが中身ない」 /群馬
(毎日新聞群馬版2019年4月26日)https://mainichi.jp/articles/20190426/ddl/k10/040/055000c

(写真)店のカウンターに手をつき、移転後の暮らしについて話す水出さん

(写真)赤い煙突が目印のレストラン「赤いえんとつ」=群馬県長野原町川原湯で

(写真)完成が近づいた八ッ場ダム。右手に見えるのが川原湯地区の移転地。手前がダム湖予定地。中央付近にはかつてJR川原湯温泉駅があった=群馬県長野原町の八ッ場大橋で

「その日」まで1年を切った。長野原町に八ッ場ダムの建設計画が浮上してから67年。反対闘争、町の分断、民主党政権による建設中止--。紆余(うよ)曲折を経て今年度に完成する見通しだ。立ち退きを強いられた水没地区の住民の多くは住宅を再建し、新しい生活を始めている。ふるさとを離れた人、残る選択をした人。それぞれの今を追った。【西銘研志郎】
今年度完成へ 移転先、高齢者ばかり
八ッ場ダムの本体から南西に約500メートル。山を切り開いた造成地には、新築の家が建ち並び、所々で道路の工事が進む。一見、売り出し中のニュータウンのようにもみえるが、ここは、水没する旧川原湯地区の住民の移転先として整備された。
造成地の一番端の最もダムに近いところに、赤い煙突の店がある。レストラン「赤いえんとつ」の大きな窓からは、名勝・吾妻渓谷とダム本体が一望できる。
「建物に邪魔されないで山々が見える風景を気に入ってここに決めました」。オーナーの水出耕一さん(64)はかつて川原湯温泉街で食堂を経営していた。店は湯治客や地元の常連客でにぎわっていたという。だが、今は--。
「お客さんは減ったよね、特に夜、飲みに来るお客さんは」。そう語る声には力がない。客足は当初の想定の半分程度。その半数がダム工事を見に来た観光客だ。時には「安く土地をもらえて良かったね」などと心ない言葉をかけられることもある。
水出さんは1954年生まれ。ダム建設に翻弄(ほんろう)された町の歴史は、自身の半生と重なる。
◇  ◇
「ここにダムを造ります」。長野原町にやって来た建設省幹部が突然、住民たちにこう宣言したのは52(昭和27)年5月16日のことだった。47年のカスリーン台風(関東1都5県で死者1100人)を受け、治水・利水のために吾妻川をせき止めてダムを造る計画だった。
水没地区の住民たちの反対闘争はやがて「絶対反対」と「条件付き賛成」に分かれるなど町の分断を生んだ。80年、県が町に対し、代替地で同じような街づくりを行う「生活再建案」を示し、5年後、町は案を受け入れダムの建設が決まった。
しかし、住民の土地や建物の補償交渉は難航した。86年に発表された基本計画ではダムの完成は2000年度とされたが、延長され、代替地の整備にも遅れが出た。
09年、住民をさらに不安に駆り立てる事態が起きる。政権交代だ。「コンクリートから人へ」というスローガンを掲げた民主党政権で国土交通相に就任した前原誠司氏が突然、八ッ場ダムの建設中止を表明し、工事はストップされた。
◇  ◇
このとき、水出さんの気持ちは大きく揺れ動いた。その前年の08年に移転先の土地を決めていたが、引っ越しをやめようかとも思った。だが、もうすでに周りに残っている人はいない。先の見えない将来に疲れ切っていた住民は、1人、また1人と地元から出て行った。商売をしている身。「人がいなくなった後、この地域で生きていけるのか不安だった」。結局、14年、現在の造成地に移った。
しかし、「大誤算」だったのは、多くの温泉宿が看板を下ろし、温泉街が縮小してしまったことだ。「飲食店も土産店もこんなに減るとは思わなかった。旅館があるからこそやってこられたからね……」。それでも店を閉じるつもりはない。「川原湯に来ようとしたお客さんに『ご飯を食べられる所がないんじゃ嫌だ』と言われたくないから」
だが先は見通せない。造成地には若い世代は少なく、残った住民の多くは高齢者。「再建計画は、人がいることが前提だったが、若者はダムの下流に行ってしまった。ここは器(造成地)はあるけども中身(人)がいない」。水出さんはそう言ってため息をついた。=つづく
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■ことば
八ッ場ダム
長野原町の吾妻川で国が建設を進めている多目的ダム。旧建設省が1952年に現地調査に着手。地元住民が反対運動を繰り広げたが、生活再建を前提に85年、建設を受け入れた。今年度中に完成予定。堤頂長約290メートル、堤体積は約100万立方メートル。
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八ッ場ダムを巡る経緯
1952年 建設省(現国土交通省)が現地調査に着手
80年 県が長野原町と町議会に「生活再建案」を提示
2001年
6月 住民と国が「利根川水系八ッ場ダム建設事業の施行に伴う補償基準」を調印
9月 八ッ場ダム建設の基本計画(第1回変更)告示(工期は10年度に延期。以降工期変更が3度)
05年 住民と国が「利根川水系八ッ場ダム建設事業の施行に伴う代替地分譲基準」を調印
09年 民主党に政権交代。ダム計画中止を発表
11年 国交省が建設継続を決定
15年 八ッ場ダム本体建設工事の起工式
19年度 ダム完成予定

平成の記憶・岡山 苫田ダム 多くの犠牲の上に建つ 反対運動40年、立ち退き504世帯 /岡山

2019年4月24日
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2004年11月に完成した国土交通省の苫田ダム(岡山県)についての記事を掲載します。
504世帯を立ち退かせ、強権を行使してつくられたダムですが、利水者である岡山県広域水道企業団は水が有り余っています。
現在、企業団は苫田ダムの水源を少し使っていますが,それは他の水源の使用量を減らしているからであり、苫田ダムの水源は企業団にとっては不要なものでした。

 

平成の記憶・岡山
苫田ダム 多くの犠牲の上に建つ 反対運動40年、立ち退き504世帯 /岡山
(毎日新聞岡山版2019年4月24日)https://mainichi.jp/articles/20190424/ddl/k33/040/397000c

(写真)苫田ダムの前で当時を振り返る宮本博司さん=岡山県鏡野町久田下原で2018年10月、林田奈々撮影
「大きな歯車」暮らしのみ込む
建設まで約40年に及ぶ反対運動があった苫田ダム(鏡野町)。深い水をたたえる湖の底にはかつて、立ち退きにあった504世帯の人々が住んでいた。苫田ダム工事事務所長を経験した国土交通省の元官僚、宮本博司さん(66)は「このダムに関わったことが私の人生を変えた」と振り返った。
国による苫田ダム建設計画が表面化したのは1957年の山陽新聞の記事だった。計画では苫田村(現鏡野町)の数百の家屋が水没するとされた。住民たちは集会でダム建設反対を決議し、役場も「苫田ダム絶対阻止」の看板を掲げた。
宮本さんが苫田ダム工事事務所長に着任したのは90年7月。その前は、建設省河川局開発課で働いていた。各地から持ち込まれるダムの計画を精査し、予算を取り付けるのが仕事だ。「ダムのことは全て分かっているような気になっていた」。そんな「おごり」を壊したのが苫田ダムだったという。

着任して見た水没予定地は、山あいの田園地帯。水没予定の504世帯のうち430世帯程度が移転に同意済みで、住人が立ち退いた跡は草がぼうぼうに茂っていた。その間に瓦ぶきの家がぽつりぽつりと残り、田畑の手入れをする人々がいた。
建設計画を推進する県などは86年から、ダム建設に同意した地権者に「協力感謝金」を手渡し、住民らの切り崩しを始めた。そして建設反対派だった地元・奥津町(苫田村など3村合併で誕生。現鏡野町)の森元三郎町長が90年、建設を前提とする町政への転換を表明する。
「出て行ってくれ」。建設反対の立場を崩さない住民の家を宮本さんが訪ねても、初めのうちは門前払いだった。けれど何かと用事をつけて通うと、座布団を出してくれるようになった。「みんな、いい人たちだったんです」。ダムのことでは烈火のごとく怒る男性も、何気ない話をする時には朗らかな笑顔を見せる気のいいおじさんだった。
心に焼き付いている出来事がある。津山市での夏祭りに建設省としてブースを出した数日後、移転に同意していたある地権者の男性が事務所を訪ねてきた。「建設省は奥津をこんなにも苦しめて、よそでは祭りに参加しているのか」。穏やかな付き合いをしていたはずの男性の絞り出すような声にはっとした。
同じく移転に同意した別の女性は、取り壊される家の中を片付けている途中で涙があふれて作業ができなくなった。「奥津の人たちは最後まで建設反対だった。『しょうがない』と自分で自分を納得させて出て行った」。宮本さんは今でもそう思っている。
93年6月に宮本さんは所長の任を終える。翌94年、奥津町議会はダム建設協力の方針を決定。2001年、最後の水没地権者が立ち退きの契約に応じ、03年に全ての地権者の移転が完了した。04年11月、苫田ダムの完成式が開かれた。
あの時何か自分はできなかったのか--。そうした負い目を今も感じ続けている。「『ダムをやめよう』と言おうと思えば言えた。けれど、苦渋の決断で同意した人のことを考えるとそれは違うと思った」。県や国の職員たちもしんどい思いを抱えながら、「とにかくダムを進める」という原理に従っていた。個人がどうにもできない「大きな歯車」が動き、もはや事業中止は現実的な選択肢ではなかった。それは、次に赴任した長良川河口堰(かこうぜき)(三重県)の建設現場でも同じことだった。
「同じようなことになる前にブレーキを掛けられる仕組みを」。宮本さんは官僚として1997年の河川法改正に関わり、ダム建設に環境保全や住民参加の考え方を導入した。淀川河川事務所長だった2001年には、大津市で計画されている大戸川(だいどがわ)ダム建設について国から独立した委員会を設置した。しかし、16年8月、国交省は大戸川ダム建設事業を継続すると発表。建設に反対してきた滋賀県知事も今月、容認する考えを表明した。宮本さんは「物事を変えるというのは、本当に難しい」とため息をつく。
昨年10月、約10年ぶりに苫田ダムを訪れた宮本さん。「責められているような気がする」とつぶやいた。「今あるダムを否定するわけではないが、犠牲を払ってでも造る必要があるものなのか考えないといけない。奥津であったことは、忘れてはならない記憶です」【林田奈々】=随時掲載

利水計画、見通し甘く
苫田ダムは、約2035億円をかけて建設された県内3番目の規模の多目的ダム。大雨の際に水をためる「治水」に加え、生活用水などを確保する「利水」の役割が期待された。しかし予想より水需要が伸びず、使わない水の料金を自治体が支払い続ける事態に陥っている。
苫田ダムが供給できる水は日量40万トン。ダム設計時、将来必要になる水量としてはじき出された数字だ。県や市町村でつくる県広域水道企業団が、県内の市町村に水を売る仕組みとなっている。
だが現在、購入されているのは3割の約13万トンに過ぎない。しかも、実際の使用量はもっと少ない。日量約6・5万トンを買う岡山市の場合、使用量は2・6万トンにとどまる。年間約5億円を過大に払っている計算だ。
一方、水が買われないとダム建設費の一部を借金して負担した企業団の経営が苦しくなり、水道料金の値上げにもつながりかねない。今後水需要が大きく増えることは考えにくく、ダム設計当時の見通しの甘さが浮き彫りになっている。
住み慣れた故郷、莫大(ばくだい)な予算や時間、労力--。大きな対価と引き替えに建設された苫田ダムという「遺産」をどのように将来に生かすのか。目を反らさずに考えなければならない。

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